2012年10月11日掲載

トップインタビュー 明日を拓く「型」と「知恵」 - “一国一城の主”が集う団体。大方針で「その気にさせる」──上野観光連盟会長(二木商会社長)  二木忠男さん(上)

 


 

   撮影=戸室健介

二木忠男 ふたつぎ ただお
上野観光連盟会長/株式会社二木商会社長
1953年東京都生まれ。二木グループ創業者・故二木源治氏の息子。76年立教大学卒。卒業後、大阪の菓子問屋で修業後、78年株式会社二木(二木の菓子)入社。二木ゴルフ、東洋茶廊などの社員、役員を経て、現在は二木グループ代表役員。上野駅周辺全地区整備推進協議会会長、東京都警察官友の会・第六方面委員長など公職も多い。

歴史と伝統の東京・上野地区を「観光」と「環境」から支える。
目指すのは「山」と「街」と「駅」の共存共栄だ。
浅草と並ぶ都市型観光地は、関係者の利害調整で運営される。

取材構成・文=高井尚之(◆プロフィール

 東京・芝の増上寺とともに徳川家の菩提寺だった「寛永寺」、彰義隊が奮戦した「戊辰戦争」など、江戸から明治にかけての歴史の舞台。「日本初の地下鉄開通」(昭和2年。上野-浅草間)など“日本初”も多く、かつてはハイカラな街だった上野――。
 高度成長期以降は渋谷や新宿に「街の主役の座」を譲り、カッコよさでは六本木やお台場に太刀打ちできない。
 だが、それでも脚光を浴び続ける。

「パンダ」によって元気が出る街

「267万7372人」(2010年度)→「470万7261人」(2011年度)。
 何の数字か、おわかりだろうか。1年間に上野動物園を訪れた入園者数である。

 上野は“パンダによって元気になる街”といわれる。
 2011年2月21日に来園したジャイアントパンダ「リーリー」(オス)と「シンシン」(メス)の効果で、200万人以上も動物園の入園者数が増えたのだ。今年(12年7月5日)誕生した赤ちゃんパンダは日本中の話題となり、7月11日の急死に落胆した。
 動物園関係者と同じくショックを受けたのが、上野観光連盟会長の二木(ふたつぎ)忠男さんだ。

「7月13日から8月12日まで開催された『第61回うえの夏まつり』に向けて、来場者に渡す、赤ちゃんパンダ“お誕生おめでとう”のお面も製作したのですよ。今年はパンダ来日40年の記念の年。弾みがついたと喜んでいたので、本当にガッカリしました」
 ここまで入れ込むのには理由がある。実は二木さんは、リーリーとシンシンを上野動物園に呼んだ立役者の一人なのだ。


上野を活気づけるため、二木会長はパンダ来園に向けて奔走した

 尖閣諸島をめぐる外交問題がこじれ、歓迎ムードが色あせた「日中国交正常化40周年」だが、上野動物園とパンダはこれに大きく関係している。1972年に国交正常化を記念して中国から贈られたのが「カンカン」(オス)と「ランラン」(メス)だったからだ。
 一躍“パンダブーム”が巻き起こり、74年の来園客数は空前の764万7440人にも達する。
 2頭の死後も「ホァンホァン」(メス)など新たなパンダが来園し、「トントン」(メス)など、上野動物園で生まれたパンダも来園客を楽しませていたが、08年に「リンリン」(オス)が死ぬと、パンダ不在の時代が続いた。

「観光連盟でも『やはりパンダがいないと上野も活気づかない』という声が上がり」(二木さん)、石原慎太郎・東京都知事に陳情。だが現在はレンタル方式で、年間1億円近い維持費がかかる。その後の都知事記者会見で「ご神体じゃないんだから、見たければパンダが飼育されている和歌山の『アドベンチャーワールド』に行けばいい」と言い放つなど、けんもほろろ。

 そこで作戦を変えて、近隣の寛永寺幼稚園や黒門小学校、忍岡小学校など10校を回り、作製したパンダバッジを配った。すると先生たちが賛同して、子どもたちの声を、寄せ書きや色紙にして集めてくれた。
 これを持参し再陳情したところ風向きが変わり、2頭のパンダの来園につながったのだ。


子どもたちの想いの詰まった寄せ書き

「西郷さん」で、情報発信し続ける

「『UENO3153』(うえのさいごーさん)がオープン」
 こんなニュースが話題となったのが、今年9月15日のこと。
「UENO3153」は、JR上野駅の公園口を出てすぐにあった「西郷会館」(新ビルともに、経営は飲食業の「聚楽(じゅらく)台」)跡地に建てられた複合商業施設である。
 すぐ裏手には有名な「西郷隆盛像」が建つ。ご存じ、パンダと並ぶ上野公園名物だ。
 建物は上野らしく地上3階、地下2階で、高層ビルではない。銅像と同じ高さに抑え、西郷像前の地面と一体化した屋上テラスからは、銅像が間近に見られる。

「飲食店が多く入居するビルですが、1階のロッテリアと銀座コージーコーナーのコラボ店舗などがあるフードコート『L'UENO(ルエノ)』には、上野の観光案内所もあります」
 屋上庭園は、西郷隆盛が仕えた薩摩・島津家の庭園を模して造られ、鹿児島県から取り寄せた植物も植えられているという。

 西郷像自体の建立(こんりゅう)は非常に古く、114年前の1898(明治31)年に除幕式が行われた。ちなみにこれも“日本初の除幕式”だとか。
 建立時では周知の事実だったが、歴史を経るうちに忘れられ、西郷像の作者(高村光雲作)と、連れている犬の作者(後藤貞行作)が違うことで、話題を呼んだこともある。
 今回の建物完成に先駆けて、9月に銅像のライトアップも行った。
 今でも人気の高い歴史的人物とはいえ、何もしなければ話題にもならない。「西郷さん」に絡めて、常に何らかの情報発信をし続けるのが、この地域らしさだ。


今日も西郷さんが上野を訪れる人を見守っている

 「歴史的な名所旧跡も多く、それを観光資源としてどう打ち出すかも求められます」と語る二木さんは、上野アメ横では有名な、二木(にき)の菓子や二木ゴルフの出身。アメ横商店街連合会の会長も長く務めた(現在は名誉会長)。
 「上野」が面白いのは、東急(東京急行)電鉄が再開発する「渋谷」や、西武鉄道や東武鉄道の「池袋」などと違い、街づくりを巨大資本の主導ではなく、地元の商店主が主導して担っていることだろう。

“オール上野”で取り組む

 上野観光連盟の位置付けは、人事組織的にも興味深い。観光連盟が全体のトップとなり、傘下に各商店街(例えば上野中央通り商店会、上野中通り商店街振興組合)が連なり、各商店街の会長は、観光連盟では副会長として二木さんを支える。
 「商店街同士は、一歩間違えれば利害関係で対立しかねませんが、観光連盟は上野の活性化や発展といった全体視点で取り組む。“オール上野”として一致団結できるのです」
 同じ方向を向いてもらうために、会長が「大方針を掲げる」のも大切だという。

 例えば、11年にパンダの再来園が決まると「うえのパンダ歓迎実行委員会」が組織され、二木さんは委員長に就任。博物館、大学、商店街、区、官庁関係、百貨店、メーカー、交通機関などと連携し、「うえのパンダ」キャラクターを統一した。


リーリーとシンシンのピンバッジ

 各社や各店は、自前でパンダ関連商品も製作した。この連載の第4回で紹介したスコッチグレインの「パンダシューズ」は、こうした流れとも関連している。

 二木さんは40年前のパンダ初来日を覚えている。上野公園の入り口には高さ8mのパンダ人形が置かれ、来園者たちは動物園を訪れた後、上野の街で買物をし、食事をした。
 パンダ効果は、家族連れやカップルの来園客が増えるなど、世代の広がりも期待できる。今回はパンダバスを走らせ、エサ代にも充てる「ジャイアントパンダ保護サポート基金」を創設。人気子役をパンダ歓迎大使に任命した。今年は全国の小学生以下の男女(プロアマ問わず)を対象に「うえのパンダ大使」を公募し、10月から任命している。

 さらに、台東区と連携した「国立西洋美術館を世界文化遺産に」の活動も、観光連盟が担う。国立西洋美術館は、フランス人建築家であるル・コルビュジエが設計した国内唯一の建築物(重要文化財)で、フランス政府主導の建築物関係6カ国による共同提案だ。
 世界遺産に認可されれば大きいが、この活動自体も話題となり、結果的に美術館や博物館の集積地である上野公園が注目される。

 上野の関係者は「山と街の連携」という言い方をする。「山」とは上野の山(上野公園)で、「街」は上野の商業地区のことだ。行った人ならご存じのように、山といっても石段で上る程度の高さだが、動物園や博物館、美術館がある山(文化ゾーン)を訪れた人に、すぐ下の街(商業ゾーン)に下りて飲食や買物をしてほしい願いが込められている。

 近年はこれに「駅」も加わった。JR東日本が進める商業施設である「アトレ」などの“駅ナカ”は、地元商店主の立場で見れば、駅利用者の囲い込みになりかねない。
 上野駅や鉄道事業者と一緒に考え、論議を戦わせるのもまた、オール上野への道だ。

若手に任せること、長老に頼むこと

「活動は若手、ご高説は長老――これが、観光連盟での役割分担です」
 二木さんはこう説明して笑う。これが「それぞれ出身企業が異なり、ここで給料をもらっていない」観光連盟のような非営利団体を運営するコツだという。
「30代や40代の若手会員には“何々係”といった役に任命し、リーダーシップを発揮してもらいます。一方で、上野の歴史を知る長老には、時に当時の話を聞かせていただきます」


幅広い年代がそれぞれの良さを活かすための心配りを忘れない

 スタッフを若くするのは、運営のマンネリ化を防ぐためでもある。上野観光連盟会長といっても、50代後半の二木さんはまだ若いほうで、会員には先輩たちも多い。名誉職に退いた長老にお願いすることの一つが、パーティーへの出席だ。
「私のところに、同じ日に3団体から祝賀会や懇親会の招待状が届くことがありますが、体は一つなので1団体しか出席できません。そんな時、残りの二つを『ぜひご出席いただきたい』とお願いして、長老たちに出席してもらうのです」

 こんな社交性は、生い立ちとも関係する。
 アメ横商店街連合会・初代会長を務めた二木源治さんの、息子として生まれた二木さんは、高校、大学時代はアメリカンフットボールの選手だった。体育会の組織で、チームプレーや上下関係を学ぶ。
 卒業後は、父の指示で大阪の菓子問屋にて修業。「多くの人に会うことで、物事を客観的に見る目も養われた」という。修業後に家業に入社した。

 父の源治さんは、戦前に東京・深川で八百屋を営んでいたが、戦争で軍隊に徴集。復員後、焼け野原だった上野で露店をはじめ、芋アメや爆弾あられが大人気となり、二木の菓子を創業。高度成長期には、レジャーブームを見込んで二木ゴルフを創業した。『アメ横 ニキニキ商法』の著書も出した立志伝中の人だった。
 人情家だったが、商売には厳しい父に叱正されながら、二木さんは人間関係を磨く。
「『山の8合目まで登ったら、次のことに手を打て』など父の教えは、今でも私の財産です」と振り返る。

「観光」は、「環境」あってこそ

 今年の6月、二木さんに新たな肩書がついた。「上野駅周辺全地区整備推進協議会(全整協)会長」になったのだ。31年の歴史を刻む「街づくりの会」の責任者である。
 観光と街づくりの両方のトップとして急務なのは、上野の街の環境整備だ。
「この二つは一緒にやらなければなりません。観光は環境あってこそですから」

 実は上野地区は「3K(くさい、怖い、汚い)」とも揶揄(やゆ)される。「飲食店が多く、食べ物も豊富にあるのでホームレスが住みやすい街」とも言われ、かつては営団地下鉄(現東京メトロ)の上野駅に続く地下街が、すみかとなっていた。

 風俗店のスカウトや客引きの問題もある。特に目立つのが上野公園「不忍池(しのばずのいけ)」から道路を隔てた「上野仲通り」だ。飲食店も多く、筆者もこの取材の3日前に別の会食で訪れたが、目指す店に着くまで、客引きの勧誘がうっとうしい。
「上野警察署とも連携し、私たちもパトロールをして注意しますけど、なかなか減りません。普通に楽しんでいただくために、一生懸命活動していますが」
 繁華街を抱える地区に共通する悩みだが、解決しないと「安心・安全な街」にならない。

 一方で、効果が表れたものもある。上野公園の桜の時期(「うえの桜まつり」。今年は3月27日から4月15日まで実施)のマナーだ。ボンボリ約1000個や、高張提灯が設置されて長年続く名物行事も、かつては夜になると“3Kの花見”となっていたが、繰り返しのマナーキャンペーンによって改善された。


第63回うえの桜まつりの様子

「今年の『うえの夏まつり』では、定番の“パレード”や“納涼演歌まつり”(入場料100円)“植木市・骨董市”などに加え、“真夏の笑(しょう)フェス2012”(前売り1000円、当日1300円)や、ワンコインで観戦できる“大日本プロレス”(入場料大人500円)も実施しました。先輩が築き上げた内容に、若い世代の感性を付け加えて実施しています。
 これに参加して『今まで来たことがなかったけど、初めて上野を知った』と話す人もいます。四季のイベントや話題性を発信し続け、『楽しい場所だね』と思っていただきたい」
“昼も夜も安心して回遊できる街”へ、エネルギッシュな会長の奮闘は続く。

■Company Profile
上野観光連盟
・創業/1949(昭和24)年
・会長 二木 忠男
・事務局/東京都台東区上野2-1-3 88ビル9階
 (TEL) 03-3833-0030
・事業内容/上野公園、アメ横、美術館・博物館など、上野地区の観光情報を紹介
・公式サイト http://www.ueno.or.jp/

◆高井尚之(たかい・なおゆき)
ジャーナリスト。1962年生まれ。日本実業出版社、花王・情報作成部を経て2004年から現職。「企業と生活者との交流」「ビジネス現場とヒト」をテーマに、企画、取材・執筆、コンサルティングを行う。著書に『なぜ「高くても売れる」のか』(文藝春秋)、『日本カフェ興亡記』(日本経済新聞出版社)、『花王「百年・愚直」のものづくり』(日経ビジネス人文庫)、『花王の「日々工夫する」仕事術』(日本実業出版社)、近著に『「解」は己の中にあり 「ブラザー小池利和」の経営哲学60』(講談社)がある。