2012年10月24日掲載

トップインタビュー 明日を拓く「型」と「知恵」 - “上野飛ばし”に負けない。目指す目標は「京都」──上野観光連盟会長(二木商会社長)  二木忠男さん(下)

 


 

   撮影=戸室健介

二木忠男 ふたつぎ ただお
上野観光連盟会長/株式会社二木商会社長
1953年東京都生まれ。二木グループ創業者・故二木源治氏の息子。76年立教大学卒。卒業後、大阪の菓子問屋で修業後、78年株式会社二木(二木の菓子)入社。二木ゴルフ、東洋茶廊などの社員、役員を経て、現在は二木グループ代表役員。上野駅周辺全地区整備推進協議会会長、東京都警察官友の会・第六方面委員長など公職も多い。

歴史と伝統の東京・上野地区を「観光」と「環境」の両面から支える。
近年は「駅」を仲立ちにした、「山」と「街」の回遊性に力を注ぐ。
四季折々の「まつり」に、新たなイベントを加え、魅力を発信し続ける。

取材構成・文=高井尚之(◆プロフィール

 近ごろ、国内の観光地で目立つのは、地域同士の対立軸ではなく、連携して相乗効果を図ろうとすること。例えば大分県の由布院温泉は、山を隔てた別府温泉との連携で「温泉地巡り」を提唱する。
 喫茶店の「モーニングサービス」で知られる愛知県一宮市は、同豊橋市とのモーニングつながり(ともに「一宮モーニング」「豊橋モーニング」を提唱)も考えている。
 こうした取り組みを、早くからやってきたのが上野地区だ。

隣町・湯島と仲良く連携

 「上野公園」を持つ上野、学問の神様・菅原道真を祭る「湯島天神(天満宮)」で知られる湯島は、地図で見ると不忍通りを隔てて分かれている。行政区も上野は「台東区」、湯島は「文京区」と異なる。それにもかかわらず良好な関係が続く。

 その理由を、上野観光連盟会長の二木忠男さんは語る。
「(台東区池之端にある)旧岩崎邸の保存活動や防犯カメラの設置など、隣町である湯島とは合同で行うプロジェクトがたくさんあるのです。先輩たちの時代から、上野と湯島は仲が良かった。近隣地区が対立するのは、どちらが主導権を握るかを争うからでしょう」

 両地区が連携した活動の一つに「食べないと飲まナイト」というイベントがある。飲食業界で注目されている取り組みで、今やテレビでも紹介されるようになった。

 簡単に言うと、3500円(前売りの場合、当日は4000円)の回数券(700円×5枚、当日は800円×5枚)で、地域の参加店に行けば、各店が決めた「ワンドリンク、ワンフード」が提供されるというもの。開催場所によって異なるが、例えば焼き鳥店もあれば、中華料理店もある。気になった店を5店舗訪れ、ハシゴ酒ができるイベントだ。“大人のスタンプラリー”という感覚で楽しめる。

 この最初の開催場所となったのが「上野仲町・湯島」だ。イベントを提唱したのは、仲町通りで飲食店を運営する長岡商事(店名は、「下町酒場 あいうえお」、「下町バル ながおか屋」など)の女性取締役・前川弘美さんである。同社も上野観光連盟の会員だ。

 多くの組織団体は「タテの関係で仕事を進めるのは得意だが、ヨコの関係は苦手」だと言われる。だが上野は一致団結するケースが多い。
 前川さんは次のように話す。「ずっと昔に、観光新聞を作成してお客さまを呼び込もうとしたとき、上野観光連盟は協力的で、精神的に支えられました。今回の『食べないと飲まナイト』でも、観光連盟の協力があったのです」


ヨコの関係をつなげるにはヒケツがある

 二木さんの基本姿勢は「文化振興や観光振興につながることなら、まずはやらせよう、応援しようという意識です。提唱者の熱意や意向をくみ、いい面を引き上げてあげたい」というもの。新しい取り組みにも、積極的に関わっていく。

「途中駅」や「駅ナカ」という逆風

 あの有名な石川啄木の短歌、
「ふるさとの訛(なまり)なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きに行く」(一握の砂)
 というのは、啄木が上野駅を訪れて詠んだといわれる。

 戦後は東京五輪の年(1964年)に発売された、井沢八郎「あゝ上野駅」でも歌われた同駅は、歌詞のとおり、高度成長期には集団就職で上京する学生の“心の駅”だった。
 日本有数のターミナル駅として栄えた上野駅は、一世紀以上にわたり、特に東北や北関東、北信越地方の人にとって、郷愁を呼び起こす駅だった。

 だが80年代以降は、東北・上越新幹線開業(1982年)に伴い在来線の特急列車が廃止され、その新幹線も東京駅始発・終点となり(1991年)、上野は途中駅となった。
 さらに東北新幹線の「はやぶさ」号(2011年)では、東京始発の次の停車駅が大宮となるなど、さまざまな“上野飛ばし”もある。
 かつて「北の玄関口」と呼ばれた存在感は弱まり、昔より乗降客も減ってきた。2014年度には、現在は上野駅始発の宇都宮・高崎・常磐線も、東京駅まで延伸される予定だ。

 こうした状況と向き合う二木さんは、観光連盟会長としてよりも、全整協(上野駅周辺全地区整備推進協議会)会長としての舵(かじ)取りが求められる。
「大切なのは対話と団結です。それを上野は何十年も前からやってきました」
 二木さんの先輩商店主たちが結集して、計画を変えたこともある。
「バブル経済期には、JR上野駅を高さ300メートルの超高層ビルに建て替える計画がありました。この時は地元が猛反対して、バブル崩壊で計画が立ち消えになったのです」

 その後、上野駅構内に設置された大規模商業施設「atré(アトレ)」や「ecute(エキュート)」の開業でも、地元から警戒する声が上がった。これは先輩たちが共存共栄の視点で受け入れた。
 全国どこでも、規模の違いはあれ、駅の再開発と地元商店街の利害調整は難しい。
「JR東日本など鉄道事業者とも対立軸ではなく、定期的に本音ベースで話し合っています。上野を支える3本柱の一つが『駅』ですから。
 駅を仲立ちに上野の『山』と『街』が回遊性を保ち、発展するように活動しています」

 二木さんが「観光と環境は一体で行わなければ訪問客は増えません」と話すように、全整協が「環境」整備なら、観光連盟は「観光」振興の役割だ。
 前に紹介した「食べないと飲まナイト」も、「夜は客引きが多く怖い街」と言われる上野仲町通りのイメージを変える役割とともに、お客に回遊してもらう目的もある。
 イベント時には若い客層も数多く押し寄せ、現在のところ効果が出ているようだ

先人の資産を受け継ぐ

 「上野には変えてはいけないものがあります。由緒ある建造物や歴史の舞台となった名所旧跡です。観光連盟はこうした歴史遺産を守りながら、街づくりに取り組むのです。
 逆に、時代の流れに合わなくなったものは見直したり、淘汰されたりします。『うえの夏まつり』で新たなイベントを行うのもその一つです。残念ながら、映画の名画座も姿を消しました。でも下町らしさは、いつまでも残し続けたい」

 こう説明する二木さんは、地元の観光名所の語り部役も自認する。
「寛永寺は、徳川15代将軍のうち6人の墓があります。他の6人は増上寺に墓があり、江戸城をはさんで東の寛永寺と西の増上寺は鬼門に位置し、ともに江戸幕府の菩提寺でした。残りの3人、初代家康と3代家光は日光東照宮に、15代慶喜は谷中墓地に墓があるのです」
「上野公園の不忍池は、琵琶湖を模して造られました。明治時代には外周が競馬場だったのです。池を埋める計画もあったのですが、埋めなくて正解でした」


明治時代の上野公園は、不忍池畔で競馬が行われていた

 郊外の開発計画のように、何もない段階から始めるのとは違い、すでにある歴史遺産を抱えながらの取り組みなので、上野としての立ち位置を明確にしている。
「若い世代を取り込む活動はしますが、若者の街を目指す気はありません。ヤング層を取り込むにしても渋谷や原宿、お台場には勝てませんし、こうした地区と同じ土俵で戦う気もない」

 そう語りながらも「でもジーパンやMA-1(米軍のジャケット)を最初に販売し、当時の若者に人気を呼んだのはアメ横だったのですよ」と自負心も示す。
 同じ台東区の浅草とは、共存共栄をしつつ「江戸情緒」や「昭和レトロ」で競い合う間柄でもある。

「浅草と上野が決定的に違うのは、街を訪れる客層と交通アクセスです。浅草は外国人観光客が多いのに対して、上野は家族連れが多い。
 また浅草は、地下鉄(東京メトロ銀座線、都営浅草線)と東武線の3路線が乗り入れていますが、上野はJR在来線(山手線、京浜東北線など)や東京メトロ(銀座線、日比谷線)、京成線が乗り入れて、より利便性が高いのです」

 台東区は浅草と上野を中心に、年間4000万人もの観光客が訪れる。区全体で目指すのは、「京都」。同5000万人が訪れる日本を代表する古都に追いつきたいからだという。

会社経営では「早めに決断」

 上野のもう一つの名物である「アメ横」といえば、今も昔も買い物の街――。現在のデフレ時代や超円高のずっと昔から、食料品や生活雑貨、衣服や化粧品が驚くほど安かった。
 JR上野駅から御徒町駅まで、線路に沿って縦横に続く商店の数は約430店。そのにぎわいが「年の瀬の風物詩」としてメディアで報道される商店街である。昨年の年末には、1日約50万人ものお客でにぎわった。

 この一角に、古くからある仏閣「摩利支天徳大寺」を2階に上げ、軒下で商売をする店がある。「二木(にき)の菓子」だ。階段を下りた地下に『カフェ・ニキ』という店もある。
 2008年10月、昔ながらの喫茶店としてリニューアルオープンした。モダンな明るいつくりの「セルフカフェ」が主流の時代に、あえて「喫茶店」で勝負する。

「地下にある店に、わざわざ下りてきてくれたお客さんをもてなしたい。店内には国立西洋美術館が所蔵する絵画のレプリカを飾るなど、地元密着の一面も打ち出しています」
 最近はパンダ色が強く、店内には歴代パンダの写真が飾られる。メニューもデザインカプチーノ(カプチーノの表面に描く絵柄)で「パンダカプチーノ」(500円)を提供する。


パンダカプチーノ(ココアバージョン)

「カフェ・ニキ」のコーヒーは450円、パスタやホットサンドは600円(コーヒー・紅茶とセットにすれば700円)と、アメ横にしては「安くない」。
 それもあってか、リニューアル当初は集客に苦戦したが、最近は好調だ。昭和時代を思わせる手作りメニューと、くつろげる空間を求めてお客が集まる。

 実は経営母体は変わらないが、以前はインターネットカフェだった。さらにさかのぼれば1963年に開業した「宮殿」という名前で、一世を風靡した店でもあった。
「当初はジャズ喫茶として開業。客席は600席もあり、1階ではバイキングレストラン、地下のこの場所が喫茶店でした。ジャガーズやテンプターズ、和田弘とマヒナスターズといった、当時の人気バンドも多数出演。新宿の『ACB(アシベ)』と並び称されたのです」

 21世紀になって個人客向けのネットカフェ『Q-den』に変えて5年営業したが、4年前に再び、昔ながらの喫茶店に戻したわけだ。その理由を「24時間営業で、深夜は店員1人で回していました。アメ横は物販の商店街なので、夜遅くには人通りも絶えます。売り上げも思ったほど伸びませんでしたが、特に治安面が心配だったのです」と明かす。

 現在の喫茶店は75席あり、客足も順調。近くで働く人も休憩に訪れる。営業時間は10時半から18時まで。「もう少し長く営業してほしい」という声も多いとか。
 二木さんの経営モットーの一つが「うまくいかなければ早めに変える」。これも先代(二木グループ創業者である、故・二木源治さん)から学んだことだ。

大切なのは「続けること」

 自社の経営では時に「撤退」もするが、観光連盟の立場では「継続性」を重視する。
「上野観光連盟のような、先人から代々受け継がれてきた活動で怖いのは、やめてしまうことです。やめる理由は、資金不足や後継者不足などさまざまでしょうが、知恵を出し合って続けていきたい。一度やめてしまうと、簡単には戻せませんから。
 いずれ私も会長を退く時期が来ますが、後継者は活動を推進する人を指名したいですね」

 歴史遺産と並ぶ上野の地域資源は、文化施設から動物園まで、多彩な表情を持つ上野公園(上野の山)だ。その一つに豊かな緑もある。
 国土交通省が提唱する「全国都市緑化フェアTOKYO」(TOKYO GREEN 2012)では上野(恩賜)公園がメイン会場の一つとなり、9月29日から10月28日まで開催。ちなみに他の五会場は、日比谷公園、井の頭恩賜公園、浜離宮恩賜公園、海の森、国営昭和記念公園だ。
 上野公園では被災地への祈りや農の風景を再現した「東北『農』の庭(共助のガーデン)」も実施された。

 冬には公園内にある上野東照宮で「冬ぼたんまつり」も開かれる。


冬ぼたんまつりに咲く花

 春になれば、咲き誇った名物の桜が花見客を出迎えてくれる。その季節が終わると…
「今年は残念でしたが、パンダの赤ちゃん誕生も期待できます。うまくいけば来年の6月中かもしれませんね」
 そう話し「だんだん顔もパンダに似てきた」と言われる、笑顔を浮かべる二木さんだった。

■Company Profile
上野観光連盟
・創業/1949(昭和24)年
・会長 二木 忠男
・事務局/東京都台東区上野2-1-3 88ビル9階
 (TEL) 03-3833-0030
・事業内容/上野公園、アメ横、美術館・博物館など、上野地区の観光情報を紹介
・公式サイト http://www.ueno.or.jp/

◆高井尚之(たかい・なおゆき)
ジャーナリスト。1962年生まれ。日本実業出版社、花王・情報作成部を経て2004年から現職。「企業と生活者との交流」「ビジネス現場とヒト」をテーマに、企画、取材・執筆、コンサルティングを行う。著書に『なぜ「高くても売れる」のか』(文藝春秋)、『日本カフェ興亡記』(日本経済新聞出版社)、『花王「百年・愚直」のものづくり』(日経ビジネス人文庫)、『花王の「日々工夫する」仕事術』(日本実業出版社)、近著に『「解」は己の中にあり 「ブラザー小池利和」の経営哲学60』(講談社)がある。