「人事の時代」と人事担当者
江夏 幾多郎 えなつ いくたろう 名古屋大学大学院 経済学研究科 准教授 博士(商学。一橋大学)。専門は人事管理論。主な論文として、「非正規従業員への人事諸施策の充実と正規従業員の就労意識」(『日本労働研究雑誌』No.570、2008年)、「人事システムの内的整合性とその非線形効果」(『組織科学』45 (3)、2012年)。著書として、『人事評価における「曖昧」と「納得」』(NHK出版新書、2014年)。 |
波に乗れない人事担当者
近年、新聞などで取り沙汰されたり、種々の要人によって発言されたりする経済や経営に関するトピックの中で、人事管理に関するものが増えてきた。
その最たるものが、首相による賃上げ要請と、それに対する多くの企業や労働組合の呼応である。その他、労働時間(例えば「高度プロフェッショナル労働制」の創設)、雇用区分(例えば「労働者派遣法」の改正)、女性活躍推進などに関する動きもにぎやかで、人事管理が企業経営の枢要を占めるようになったかのようである。
こうした「人事の時代」を各企業がうまく乗り切る、つまり、多様な従業員のニーズを満たしながら企業活動の有効性を高めていくためには、人事担当者による深い現状認識と創造的な打ち手が求められよう。しかし、そうした必要条件をどれだけの企業が満たしているかについて、筆者には若干の疑問・不安がある。
これまでの25年ほどを振り返ってみても、数多くの企業で人事管理上の多くの取り組みがなされてきた。成果主義的な評価・報酬制度、職務や役割の価値に着目した社内等級制度、自律的キャリア開発をサポートするための異動や能力開発の機会の提供、ワークライフバランスを実現するためのさまざまな措置など、枚挙に暇(いとま)はない。
結果として、企業の人事管理は「仕組みのレベル」では大きく様変わりしたが、「実践のレベル」ではどうだろうか。例えば、多くの企業が給与における業績連動分の比重を大きくし、それに合わせて業績可視化の措置として「目標管理制度(MBO)」を導入した。それら自体は、制度設計上の工夫もあって、幅広い従業員や管理者の支持を得た(少なくとも、顕著な反対の声は出なかった)。
しかし実際の制度運用の中、多くの管理者が「仕事の観察や意見交換の機会を十分に持てないままに部下を評価しなければならない」「部下の評価対象の全てをMBOではくみ取れない」「一度上がった賃金が再度下がることへの部下の抵抗感を考えると、目先の高業績にそのまま報いることができない」といったことを感じるようになった。その結果、「評価基準が曖昧」「年功序列の可能性が否定できない」といった従来の姿が多分に残った(この現状記述に特定の価値判断は入っていない。筆者自身は、ある程度の曖昧性や全体論としての年次的な序列は避けられないし、それを前提とした従業員の納得を目指すしかないと考えている)。
少々厳しいことを言うと、経営の現場での仕事の流れ、上司と部下の関係性に関して、制度設計の段階での人事担当者による理解・把握が足りなかったケースが、多かったのかもしれない。インセンティブ・システムとしての人事制度の変革は、現場の事情に寄り添ってこそ実のあるものとなる。また、場合によっては、現場の仕事の流れや人々の関係性そのものを経営や人事のビジョンを踏まえてより改善・発達させるということも、人事改革の名において行われる必要がある。それらによってはじめて、人事管理は企業という全体システムの一部として有機的に作用するようになる。そうでなければ、それは移植先の人体になかなか定着しない臓器のような存在になろう。
こうしたことに思いを新たにしないと、今起きつつある「人事の時代」を人事担当者が後に振り返った際に、「時代の要請に翻弄(ほんろう)された」という反省しか残らないかもしれない。
人事担当者がプロデュースした「人事の時代」
ただし、過去を反省するだけでは、人事管理に関する前向きなエネルギーはなかなか生まれまい。その際には、人事管理に携わってきた人々が人事制度と現場の双方にどう向き合い、双方をどう結び付けてきたかについて、良質な事例に学ぶ必要がある。過去と今では多くが異なるとはいえ、過去の人々が抱いてきた問題意識や心意気の多くは、現在にも通用するだろう。
例えば、「科学的管理法」の創始者であるF. W. テイラーは,「公正な賃率(出来高給の仕組み)」を設定するために「動作研究」を行った。一流の作業員の行動がどのような要素から成り立っているかを解明することで、作業の内容や量とそれらへの対価の関係を明確化し、労使双方が他方を出し抜くことを阻止しようとしたのである。
太平洋戦争終了後の数年間の日本の労使関係の熱気からも学ぶことは多い。そこでは「勤続給」という概念が生み出されたが、それは、経営側が重視する「能率に応じた支払い」と、労働側が重視する「生活を保障できる支払い」という双方の考えを包含する性格をもったものであった。
それから十数年の後、日本企業の人事担当者は「能力給」「職能資格」という概念を編み出した。戦後しばらくの間、占領軍や経営陣の意向もあって、職務価値に応じた従業員の序列化や報酬の支払いが、多くの日本企業で模索された。しかし、従業員一人ひとりの職務内容を十分に定めきれない、あるいは定めないほうがいいという現場の力学から、その目的は十分に達成されなかった。それを踏まえて一部企業の人事担当者や人事コンサルタントたちは、「その人が従事する仕事ではなく、その人そのものに対して報いる」という考え方にたどり着いた。
足元を見据えた創造性
これらの考えそのものについては、今日的でない部分も少なくない。しかし、少なくとも当時において、それらは独自性と先進性の双方を顕著に帯びたものであった。また、これらの人事制度づくりは、「現場で何が起きているか」「現場をどう変えていきたいか」という問題意識に立脚していた。こうした革新の担い手たちは、単に外生的な「人事の時代」に適応したのではなく、自らの力で「人事の時代」を作り上げたのである。
そうした観点からすると、人事管理の世界で今日取り沙汰される現状突破の在り方には、物足りなさを感じなくもない。例えば、公正な人事評価や長時間労働の是正という観点から、従業員の職務や役割に立脚したインセンティブの導入や、職務の設計・配分の在り方の見直しが取り沙汰されることが多い。筆者もそういう方向性そのものは妥当だとは思うものの、既視感のようなもの、もっと言うと「安直な答えではないか?」という印象も、どことなく覚えてしまうのである。
人事制度と現場の双方を見据えた人事管理をこれから行うに当たっては、海外の事例を含めた、解決策に関する現状のレパートリーの中から取捨選択するだけでは足りないだろう。それぞれの企業には、経営ないしは身を置く社会の歴史に根差した、雇用関係や許容可能な多様性などに関する習慣的思考が存在している。今後の人事管理には、従来の習慣を守るにせよ打破するにせよ、企業における習慣との密接な関わりが求められる。しかもその関わり方について、人事担当者のみならず、経営者・管理者・従業員全般といった企業の幅広い当事者が理解・納得していなければならない。
これからの人事担当者には、専門的能力だけではなく、経営層や現場との人間関係や対話力、そしてそれらを築くための時間面などでの余裕が求められる。当然容易なことではないが、人事担当者ないしは人事部門が底力をアップ(回復)させなければ万事が画餅に帰することは、歴史が証明している。人事管理に関するコンサルタントや研究者には、人事担当者の業務や思考を肩代わりするのではなく、彼らが自らの理論を創出し、その理論を社内的に正当化するための支援が求められるだろう。