メンタルヘルス対策の本質にあるもの
吉野 聡 よしの さとし 1978年神奈川県生まれ。精神科医(精神保健指定医、精神科科専門医)・労働衛生コンサルタント。労働者のメンタルヘルス対策とその関連法規が専門。大企業からベンチャー企業まで多くの職場で予防的メンタルヘルス活動と、困難事例への実践的対応に取り組んでいる。著書は『「職場のメンタルヘルス」を強化する』(ダイヤモンド社)など多数。 |
■メンタルヘルス問題の変遷
職場におけるメンタルヘルス対策が世間で真剣に議論されるようになったのは、まさに電通事件(最高裁二小 平12.3.24判決)をはじめとした過労自殺事案が、世間で取り上げられるようになってきた1990年代後半からの話である。それゆえ、これまでのわが国のメンタルヘルス対策は、有給休暇の取得促進や時間外労働の削減による労働時間の短縮、さらには長時間労働者に対する医師の面接指導といった、仕事の物理的な負荷をターゲットに進められてきた。
しかしながら、徐々にそのメンタルヘルス問題の中心が、職場に来ることはできないのにプライベートでは元気に活動性を発揮する、いわゆる"新型うつ病"の問題や、比較的短期の間に休職と復職を繰り返す対応困難な事例といった、職場において個別の労務問題につながるような案件にシフトしていった。つまり、「うつ病は真面目で、几帳面で、仕事熱心な人がかかる病気だ」「うつ病は誰でもかかる病気で、適切な治療により治る病気だ」という、これまでの日本人がイメージしてきたうつ病とは異なるタイプのうつ病の話題が多くなってきたのである。
そして最近では、うつ病という最も有名な精神障害だけでなく、不安障害、適応障害、発達障害など、さまざまなメンタルヘルス問題が取り上げられるようになった。まさに、一言でメンタルヘルス問題といっても玉石混交で、非常に多岐にわたる問題の総称的な意味合いを持つようになってきたと言えよう。
このようにメンタルヘルス問題は時代と共に変化をしてきたが、どのフェーズにおいても共通する重要な点は、このメンタルヘルス問題の発生を防ぐための効果的な対策がなかなか講じられてこなかったことに尽きる。
■メンタルヘルス対策のパラダイムシフトの重要性
なぜ、これだけメンタルヘルス問題が社会的に取り上げられているのに、いまだにほとんどの職場では効果的な対策が講じられていないのだろうか。私が産業医として多くの職場を見てきた経験から、その理由としては「仕事には必ずストレスが包含されていること」「ストレスは極めて主観的な存在であること」の二つに集約されるのではないかと考えている。
これまでのメンタルヘルス対策は、職場におけるストレスをどのようにして軽減させるか、という点に主眼が置かれてきた。しかしながら、実際には、ストレスのない仕事などは存在しないし、それゆえ、職場ではストレス(労働の負荷)に適切に対応する対価として賃金が支払われているという側面も否定できない。しかも、問題をややこしくしている一因として、「それならば、難易度の低い単純な仕事にすればストレスが軽減されるのか」と言われれば、そうとも限らないのだ。ストレスは極めて主観的な存在であり、負荷を減らした結果、今度はやりがいがない、自己成長実感がないといった理由からストレスを増強させるケースもある。こうしたことから、「ストレスを軽減して快適な職場づくりを」といった、これまでごく一般的に用いられてきたメンタルヘルス対策のスローガン自体を根本から見直す時期に来ているのではないだろうか。
適度なストレスは、人が高いパフォーマンスを発揮する上では重要な要素であることが知られている。だからこそ、「ストレスを前向きに捉える人材を育て、ストレスを適切にマネジメントできる組織を作る」といった、より本質的なメンタルヘルス対策にパラダイムシフトしていくことが重要なのだと私は考える。
■メンタルヘルス対策をコストから投資へ
そのように考えた時に、参考にすべきは、現在、欧米では主流となっているヘルス・アンド・プロダクティビティー・マネジメント(Health and Productivity Management)の考え方である。従業員の健康を維持・向上させることが、企業における生産性の維持・向上につながるというこの概念こそが、今のメンタルヘルス対策に求められている。
なんとなく会社に出勤し、なんとなく仕事をしている時の生産性と、目的意識を持って、自己成長を感じながら、モチベーションも高い状態で仕事に取り組んでいる時の生産性の間に、大きな差が生じることを誰もが経験したことがあるだろう。後者のような状態で仕事をしている時には、多少帰りが遅くなっても、多少仕事の難易度が高くても、それを苦痛に感じるという人はほとんどいないはずである。
つまり、メンタルヘルス対策とは、職場のストレスに耐えることができずに病気を発症してしまう一部の人に対する福利厚生や弱者救済といった"コスト"の視点ではなく、全従業員のモチベーションと企業の生産性に直結する重要な問題に対する"投資"として認識し直す必要がある。
もちろん、寝る時間を削らなければならないような長時間労働や、自分の趣味や家族との時間すら確保できないような労働環境では、長期間にわたり健康を維持することは困難で、モチベーションの高い状態を維持することもできない。だからこそ、個人と組織が常に良好なパフォーマンスを出せる状態を目指し、個人の成長が企業の成長を支え、企業の成長が個人の自尊心と帰属意識を高める、そんなスパイラルアップの関係性を作り出すことこそが、メンタルヘルス対策の本質にあるのではないだろうか。