2018年07月13日掲載

Point of view - 第114回 今井 むつみ ―「仕事の達人」になるために必要なこと ――認知科学の視点から

「仕事の達人」になるために必要なこと
――認知科学の視点から

今井 むつみ いまい むつみ
慶應義塾大学 環境情報学部 教授

1989年慶応義塾大学大学院博士課程単位取得退学。1994年ノースウェスタン大学心理学部Ph.D.取得。専門は認知心理学、発達心理学、言語心理学。幼児の言語や概念の発達、認知科学の立場から学びの仕組みを明らかにする研究を行っている。数多くの学術論文を国際誌に発表し、Cognitive Science Society(国際認知科学会)のFellow, Governing Board Memberに選出されている。『ことばと思考』(岩波新書)、『ことばの発達の謎を解く』(ちくまプリマー新書)などの一般書も発表。『学びとは何か―〈探究人〉になるために』(岩波新書)は、これからの学び・教育への理論的指針を与える本として各方面から注目を集めている。

「即戦力になる人材」は企業が本当に必要な人材か

大学にいると、企業から「即戦力になる人材を育ててほしい」という声が最近強くなるばかりである。「即戦力」とは、すぐに仕事で使えるスキルを身につけた人材、ということらしい。もう一つ、ほとんどの仕事がAIに奪われてしまうという予測が、最近よく話題になっている。だから、AIができないこと、他の人に負けないスキルを持たなければならないということのようだ。この二つを組み合わせれば、今の社会で求められるのは、「今すぐ他の人に負けない、特別なスキルを持った人材」ということになるだろう。例えば今は、ビッグデータ分析ができる人材や、ロボットを動かすプログラミングができるスキルを持った人材などが大モテだ。

しかし「即戦力になるスキルを持つ人材」は、本当に企業が最も必要な人材だろうか? 慶應義塾大学第7代塾長であった小泉信三は、『読書論』(岩波新書)の中で、「すぐ役に立つものは、すぐに使えなくなる」と50年以上も前に書いている。しかも、現代は当時よりもずっとテクノロジーの進化の速度が速い。大学卒業後数年で、大学中に習得したスキルは役立たなくなってしまうかもしれない。このような変化が激しい社会の中で、最も大事な能力は何か。それは、学び続け、向上し続けることができる能力、新しいことを躊躇(ちゅうちょ)なく柔軟に学ぶことができる能力である。

認知科学から見た「達人」の特徴とは

認知科学の重要な研究分野に「熟達」がある。これは、人があることに熟達していく上での認知の過程を明らかにしていく分野で、各分野における超一流の達人のマインドセットを明らかにすることを目的としている。この達人たちの特徴や学習の仕方は、企業人の在り方、あるいは学び方に非常に深い示唆を与えてくれる。結局、今の時代にAIに職を奪われず、これからも恒常的に起こるであろうテクノロジー革命に柔軟に対応していくには、自分の分野で「達人」になるしかない。

スポーツ、芸術、将棋、囲碁、チェスなどのボードゲーム、医療、経営、研究などあらゆる分野で、熟達するスキル自体は異なるが、達人には共通の特徴がある。

順不同で書き出してみると、下記のようなものだ。

俯瞰(ふかん)的な視点で客観的に自分を評価できる

柔軟である一方、信念は曲げない

自分の分野だけではなく、他の分野にも常にアンテナを張り巡らせ、向上のためのヒントを探している

遊びを大事にする。遊びで心身をリラックスさせながらも、遊びからさまざまなことを学ぶことができる

学び方を自分で工夫できる

練習や学びを真剣に行う一方、それを苦にせず楽しむことができる

時間の使い方にメリハリがある。すべてを効率化するのではなく、必要なことには時間を惜しまない

失敗を恐れず、失敗から学ぶことができる

オリンピックのメダル、ノーベル賞など、外の基準で決められるものを究極の目的にするのではなく、自分の目指す理想の姿を自分で描くことができる

「学び続けるマインドセット」と「向上を見極める判断力」

上記で挙げた達人に共通する特徴の前提となり、かつ最も重要なポイントは、自分で学び続けようとするマインドセットを持っていることだ。工夫しながら全力で毎日学習を続けられるのは、何といっても学ぶこと自体に、そしてその結果自分が向上することに喜びを見いだすからである。もちろん、達人が悩まないわけではない。むしろ悩み、失敗することは、達人になるために欠かせないレシピともいえる。失敗を重ね、スランプに陥って悩んでもなお、学び続けることを止められないほどそのことが好きで、純粋に自分が向上していくことが喜びとなるのだろう。

ただ、そのとき、自分が向上しているのか、そうでないのかを見極める判断力は必要だ。そのためには、自分の目指す方向性、理想がイメージできることが大事だ。これは一見当たり前のことのように思えるのだが、実際には簡単なことではない。例えば、陸上競技で世界記録を達成することを目指すのに、今より自己記録を5秒縮めなければならないとしよう。そのときに必要なのは「5秒縮める」という目標そのものではなく、5秒縮めるためには、現在の自分に何が欠けていて、具体的に何を達成できていなければならないかを見極めることに他ならない。言い換えれば、自分が目指すことについて大きな絵が描けて、一方で、そこに至るための過程や方法について客観的に分析ができる。それが、各分野での超一流の達人が実践していることだ。

「学び方の学び」を身につける

先の「大きな絵が描ける」という表現を言い換えると、将棋や囲碁でよくいわれる「大局観が持てる」ということになる。そしてこれは、創造性にもつながる。なぜ創造性が必要かというと、皆がしていることをより早く、正確に美しくこなせるだけでは、人が踏み込んだことのない領域に達することができないからである。だから達人は、現状が安定しうまくいっているように見えても、現状に満足せず、常に今よりもよい姿や在り方を探求し、安定してしまうことを拒む。そのときに見ているのは、往々にして自分の分野、業界ではない。自分の分野にはまだ存在しないことから、自分がさらに熟達するヒントを探すためだ。だから達人は、自分の分野以外のことにもアンテナを張り、仕事以外の時間――遊びの時間――も全力で楽しむのである。

このような達人の特徴は、将棋やスポーツ、芸術などに限らず、ビジネスや研究開発でも同じことがいえる。ただ一つ違うのは、会社や組織では役割分担があり、今の自分のミッションは会社からアサインされる場合が多いことだろう。この場合、会社全体の目指す理想は(経営者ではない)会社員には見えにくいため、部署ごとの数値目標が目指す目標になってしまいがちだ。しかし、それではAIに勝てる仕事の達人は育たない。経営サイドは、単なる数値ではないブレない理念と目標を持ち、それを社員一人ひとりと共有できるようにすることが求められる。そして社員は、その大きな理念や目標の実現のために、自分がどのような役割を担うかを考えながら、自分の価値を高める必要がある。

もちろん組織にとってだけではなく、個人にとってもスキルを磨くことは大事である。しかし、必要なスキルはどんどん変化する。これからの社会人に求められるのは、達人になるためのブレないマインドとビジョン(大局観)、そして社会のニーズやテクノロジーに柔軟に対応するための、「学び方の学び」を身につけることなのだ。