「ビジネス進化論」を裏側から読む
吉川浩満 よしかわ ひろみつ 1972年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、フリーランス。著書に『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(河出書房新社)、『理不尽な進化――遺伝子と運のあいだ』(朝日出版社)、『脳がわかれば心がわかるか──脳科学リテラシー養成講座』(山本貴光との共著、太田出版)、『問題がモンダイなのだ』(山本との共著、ちくまプリマー新書)ほか。 |
現代人に付きまとう「ビジネス進化論」
私たちの日常生活は進化論の言葉にあふれている。なかでも顕著なのは、ビジネス関連のコンテンツだろう。
私たちは日々「進化」することを命じられる。いわく、ビジネスの現場は生き残りをかけたサバイバルゲームの舞台だ。生物の世界と同じように、ライバルとの競争に敗れたら、滅び去るほかない。滅びたくなければ、変化する環境に適応し、不断に進化を続けていかなければならない、云々。書籍、新聞、雑誌、書籍、ネット、看板、中吊り広告、社員研修……こうした「ビジネス進化論」に触れない日はないと言ってもよい。
たしかに、商品やサービス、仕事や会社といったものも、市場や法制度による淘汰のふるいにかけられて「進化」するわけだから、細かいことはおいて大枠でいえば、ビジネスの世界を進化論の言葉で語って悪いことは何もない(※1)。それに、ビジネスの世界における競争の厳しさを思えば、「ビジネス進化論」が幅をきかせるのも無理はない。
ちなみに、ビジネス進化論にも明治以降それなりの歴史があり、トレンドがある。おそらく現在のトレンドを代表する格言は、「生き残るのは、最も強い者でも最も賢い者でもなく、変化に適応できる者である」("It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives. It is the one that is most adaptable to change.")というものだ。これは、かのチャールズ・ダーウィンの言葉として流布しているものだが、実際はそうではないことが分かっている(※2)。それでもなお、この格言がありがたがられているのは、この言葉に多くの人がリアリティを感じているからこそなのだろう。
生き残りではなく、絶滅から学ぶ
だが、こうしたビジネス進化論をめぐる言説で気にかかるのは、その生き残り偏重の視点である。みんな生き残りに関心があるのだから当然といえば当然なのだが、生き残った生物や勝ち抜いた企業をお手本にしてばかりでよいのだろうか。たまには裏側から、つまり「絶滅」の側から競争を眺めてみることも大事ではないか。これが本稿の提案である。
なぜ、絶滅なのか。理由は簡単で、生き残る生物種より絶滅する生物種のほうがずっと多いからだ。生物の歴史が教えるのは、これまで地球上に出現した生物種のうち、実に99.9パーセントが絶滅してきたという事実である。私たちを含む0.1パーセントの生き残りでさえ、まだ絶滅していないというだけで、いずれは絶滅することになるだろう。
同じことは企業についてもいえる。当たり前のことだが、長い目で見れば、存続する企業よりも廃業する企業のほうがずっと多い。そうだとすれば、絶滅の観点こそ必要なのだと思えてこないだろうか。
絶滅の三つのシナリオ
先に述べたように、これまでに登場した生物種の99.9パーセントは絶滅し、存続しているのは0.1パーセントにすぎない。つまり生物種はほぼ絶滅するのだが、これは少し不思議なことでもある。生物個体の場合には、あらかじめ死が遺伝的にプログラムされている。いわゆる寿命である。だが、生物種は生物個体の集まりを指す名前であり、生きて死ぬ生物そのものではない。そこにあらかじめ絶滅がプログラムされているとは考えにくい。では、どうして絶滅するのか、寿命とは違う理由を探さなければならない。
普通に考えれば、生存競争に敗れたから、つまりは生物として劣っていたから絶滅したのだということになる。これはビジネス進化論で度々使われるロジックでもあるだろう。
だが、本当にそうなのか?と問題提起をした学者がいる。アメリカの古生物学者デイヴィッド・ラウプ(1933-2015)である(※3)。彼は厖大な化石標本と統計学を駆使して、どうして生物種が絶滅へと至るのかを探った。そして、生物種が絶滅へと至る過程には、次のような三つのシナリオがあると結論した。
1.弾幕の戦場
2.公正なゲーム
3.理不尽な絶滅
一つ目の「弾幕の戦場」は、完全な不運による絶滅を指す。隕石の衝突とか火山の噴火の現場に居合わせてしまった生物種は、生物としての能力や特徴にかかわらず絶滅してしまうだろう。ロシアンルーレット風のシナリオである。
他方で、ふだん私たちが思い描く進化論のイメージに近い、いかにもビジネス進化論的な絶滅もある。それが二つ目の「公正なゲーム」のシナリオによる絶滅である。市場における低価格競争のように、生存競争の結果として絶滅が起こる。こうした形で起こる絶滅も当然あるだろう。
前者の絶滅は「運」によって、後者の絶滅は「能力(実力)」によって引き起こされたということになるが、絶滅のシナリオはこれに尽きるものではない。第三のシナリオとして「理不尽な絶滅」というものがある。
ラウプによれば、生物の歴史において、運の要素と能力の要素は複雑に絡みあっている。そのことをよく表すのが理不尽な絶滅である。これはいわば、両者が組み合わされたシナリオである。
理不尽な絶滅の典型例として、有名な恐竜の絶滅がある。約6550年前、地球に巨大な隕石が衝突した。衝突の直後、まずは落下地点の近くにいた生物が「弾幕の戦場」シナリオによって死に絶えた。その後、衝突による大量の塵が巻き上がり、地球に降り注ぐ太陽光を遮る。これは、数カ月から数年にわたって続いたようである。その結果、光合成生物が絶滅し、それを食べていた草食恐竜も絶滅、草食恐竜を食べていた肉食恐竜も絶滅することになった。この危機を生き延びたのは、光合成を必要としない菌類や、寒冷な気候に強い小動物たちであった。恐竜たちは、隕石衝突という偶発的な事件によって、一夜にして生存に不利な生物となったのである。
隕石の衝突は、地球を光の少ない寒冷な環境へと一変させた。これは、生き残るためのルールが変更されたということだが、重要な点は、このルール変更が生物の能力や、これまでの実績とは関係なく行われるということだ。いわば、能力を競うゲームのルール自体が、運によってもたらされるのである。運か能力か?ではなく、その両方、もしくは運によって能力の定義が変わってしまうことによる絶滅、これが「理不尽な絶滅」である。
ふたたび、ビジネス進化論を読む
ビジネス進化論は、「変化に適応せよ」とわれわれに命じる。だが、ただ適応せよと言うだけでは、単なる号令にとどまってしまうだろう。進化論における適応とは、繁殖可能な子孫を残すこと以外ではないのだから、適応せよと言ったところで、それはなんとかして生き残れと言っているだけに等しい。これでは内実をともなわない精神論にすぎなくなってしまう。
そこで、本稿で紹介した絶滅のシナリオを考慮に入れることで、ビジネス進化論にも少しだけ内実が加わるのではないだろうか。いま自分が戦っているのはどのような種類のゲームなのか。弾幕の戦場か、公平なゲームか、はたまた理不尽な絶滅シナリオにはまりつつあるのか。この尺度を基に自分のシナリオを検討することで、具体的な戦略が見えてくるかもしれない。
また、この絶滅という視点は、ビジネス関連の議論にしばしば見られる都合のよさを見抜く助けにもなるのではないか。一流企業や起業家たちのサクセスストーリーから学ぶところは大きいし、読んでいて心躍るものがあるのだが、そこで語られるのは単なる生存者バイアス──生存した者のみを基準とすることでもたらさせる判断の偏りや誤り──なのかもしれない。絶滅のシナリオと敗者のリアルを知ることは、冷静さを取り戻すきっかけになるだろう。
最後に、現代のビジネス進化論を代表する格言として冒頭に掲げた「生き残るのは、最も強い者でも最も賢い者でもなく、変化に適応できる者である」にあらためて触れよう。この格言を絶滅のシナリオに照らしてみると、現代のビジネス進化論がどのような絶滅を恐れているのかが分かる。それはいうまでもなく、理不尽な絶滅である。気候変動、価値観の変化、イノべーション競争……偶発的な、あるいは予測不可能な環境の変化にともなう生存ルールの変更に、いかにして対処するか。「公正なゲーム」の結果としての絶滅ではなく、「理不尽な絶滅」こそが、ビジネス進化論における悩みの種といえるだろう。
※1 ビジネス進化論における進化論の誤用については、拙著『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(河出書房新社、2018)、『理不尽な進化──遺伝子と運のあいだ』(朝日出版社、2014)などで論じた。
※2 次のサイトを参照。
The evolution of a misquotation
ダーウィンは「変化に最も対応できる生き物が生き残る」と言ったか?
※3 Raup, David M., 1991, Extinction: Bad Gene or Bad Luck?, W. W. Norton.(=1996, 渡辺政隆訳『大絶滅──遺伝子が悪いのか運が悪いのか?』平河出版社)