2019年06月14日掲載

Point of view - 第136回 南 和行 ―「LGBT対応」を誤解しないために ――同性愛者の弁護士≠LGBTの弁護士

「LGBT対応」を誤解しないために
――同性愛者の弁護士≠LGBTの弁護士

南 和行 みなみ かずゆき
なんもり法律事務所 弁護士

弁護士(大阪弁護士会所属)。1976年生まれ、大阪府立天王寺高校、京都大学農学部、同大学院を経て住宅建材メーカーに就職。学生時代に知り合った恋人(吉田昌史)と共に弁護士になることを目指し、大阪市立大学法科大学院へ。2008年司法試験合格、2009年弁護士登録(大阪弁護士会)。離婚や戸籍の問題、遺言、相続など家族に関する案件を多く取り扱う。一橋大学アウティング事件などLGBTに関わる訴訟も多く手掛ける。

 私は「LGBTと人権」をテーマにした、企業内の従業員研修や、企業外の人事労務担当者向け研修での講師をすることが多い。それは私が同性愛を公言している弁護士という「珍しい」存在だからだ。学生時代に知り合ったパートナー(当然ながら男性)と一緒に弁護士を目指し、二人ともが弁護士になって結婚式を挙げた。私とパートナーが開設した事務所では、私の母が事務員として働いている。これが私の「珍しさ」だ。

 私は講演の冒頭で「自分はLGBTの人ではなく、男性同性愛者、つまりゲイでしかありません」と言うようにしている。「自分がゲイだと思ったことはありますが、自分がLGBTだと思ったことはありません」とさらに重ねることもある。「LGBTの当事者」と期待されているのに、なぜこのような水を差すことを言うのか。それはLGBTという言葉から生じる誤解を心配するからだ。

LGBTという言葉とその誤解

 LGBTという言葉は、恋愛感情や性的関心が向く相手の性別つまり性的指向について、女性の同性愛を表すレズビアン、男性の同性愛を表すゲイ、両性愛を表すバイセクシュアルの頭文字のLGB、そして自分自身の性別の自覚(性自認あるいは性同一性という)が身体的特徴や過去に割り当てられた性別と一致しない状態を表すトランスジェンダーの頭文字のT、その四つをつなげた造語である。

 もともとは当事者らが自分たちの存在を社会に意識づけるために、連帯感を持って使い始めたとも言われている。LGBTという言葉は、社会の中で見落とされている存在があることを、そのほかの人に気付かせるための言葉であった。そして当事者らの血のにじむ運動が積み重ねられ、LGBTという言葉は広く世間に知られるようになった。

 ところが言葉としての市民権を得ると同時にLGBTという言葉についての誤解が生じるようになった。「普通じゃないのがLGBT」とか「LGBTという特別な人がいる」とかいう誤解だ。しかし、LGBTという人がいるのではない。問題は「LGBTという存在を社会が見落としていたのはなぜか」ということなのだ。ところがLGBTという言葉が独り歩きした結果、「LGBTはどこにいるの?」とまるでツチノコ探しのようなことまで始まってしまう。

大切なことは言葉を知ることではない

 また私は講演の中で「自分は、自身の体験や、弁護士として関わりを持った人から感じた自身の感想しか話せません」とも言うようにしている。

 たった一人の私がLGBTとされる全ての人の視点からの話をできるわけがない。私は、ゲイという立場から見えることしか話すことができない。しかも私は一般的な多くのゲイとはずいぶん違う環境にいる。多くのゲイにとって、自分が同性愛者だと人に言えないこと、人に知られたくないこと、人に知られることで家族や会社や友人などあらゆる人間関係が崩壊する不安にさらされていることは大きな悩みである。

 ところが今、私はありがたい巡り合わせにより、同性愛を公にしても傷つくことが少ない環境で暮らしている。10代、20代の頃に抱いていた「バレたら生きていけなくなる」という思いからも今はずいぶん解放された。

 なぜ多くのゲイにとって、「言えない」「言わない」「バラされる恐怖」が大きな悩みなのか。なのになぜ目の前にいる弁護士は、ゲイであることを隠さないで生活できているのか。それでもゲイであることを理由に傷つけられたり、嫌な思いをさせられたりすると言っているのはなぜなのか……。

 「LGBT」という言葉を知ってもらうために話をしているのではない。同じ社会に生きているのに、なぜ私の体験と、あなたの体験は異なるのか、私が「痛い」と感じることが、なぜあなたにはなんともないのか、その違いが生じるプロセスを一緒に考えてもらえたらと思いながら私は話をする。

企業の「LGBT」の取り組みに期待すること

 LGBTへの取り組みが「お気遣いマニュアル」や「怒られないマナーブック」作りになっていないだろうか。「特別扱いしなければならない自分たちと違う人たち」という発想からの取り組みは、ともすれば「LGBT」のあぶり出し、普通からの線引き、そして余裕がなくなった場合の締め出しに結び付いてしまう危険がある。

 「LGBTに対応した新規サービス」「LGBTに対応した採用活動」というキャッチフレーズから、社会に受け入れられていることを感じ、少しホッとすることもある。しかしキャッチフレーズだけでは、残念ながらそれぞれ個別の悲しみや苦しみは解消されない。

 企業などの組織が、同性愛など性的指向への差別や偏見から肩身が狭い思いをしている当事者や、自分自身の性別が尊重されずストレスを抱えている当事者を無視せず、その声に耳を傾けることは、誰をも見捨てない姿勢として一番大切なことである。そして問題や悩みが「なぜ起こったのか」を理屈で分析することは、悲しみや苦しみが発生する仕組みを、当事者以外の皆で共有する術である。その上で、分析から得た解答を可能な限り一般化し、新たな取り組みへと反映させることが、企業や組織の社会的責任ではないか。

 そうすると多くの問題について、その原因はLGBTという「特別な人」の中にあるのではなく、知らないうちに基準に合わない「特別な人」を作り出し続けた企業や組織の文化にこそあるという解答が導かれるのではないか。何か問題が起こったとき、柔軟な個別対応をしつつ、その原因を全体の問題として引き直す、それができる人事部門や労務部門の存在が、企業や組織の進化の潜在的可能性であると私は期待している。