「AIが仕事を奪う論」は新しい問題なのか
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稲葉振一郎 いなば しんいちろう 1963年東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得満期退学。岡山大学経済学部助教授などを経て、明治学院大学社会学部教授。専門は社会哲学。著書に『AI時代の労働の哲学』(講談社選書メチエ)、『銀河帝国は必要か? ロボットと人類の未来』(ちくまプリマー新書)、『社会学入門・中級編』(有斐閣)、『「新自由主義」の妖怪』(亜紀書房)、『政治の理論』(中公叢書)、『宇宙倫理学入門』(ナカニシヤ出版)、『不平等との闘い』(文春新書)、『社会学入門』(NHKブックス)、『「資本」論』(ちくま新書)、『経済学という教養』(東洋経済新報社/ちくま文庫)、『リベラリズムの存在証明』(紀伊國屋書店)、『ナウシカ解読』(窓社/増補版 勁草書房)など多数。 |
「人工知能」で何が可能になったのか
いわゆる「第三次人工知能ブーム」の中、「人工知能(AI)の急速な発展が私たちの労働社会や雇用に何をもたらすか?」という問いが、労働問題や人事労務に関心のある人々の間でも関心をひきつけつつあるようだ。この問いを真面目に考えたければ、現在脚光を浴びつつある「人工知能」の技術が果たしてどのようなものかを知るだけではなく、これまで私たちが「新技術の導入と雇用・労働」について考えてきたことの蓄積を改めて振り返ることも必要だろう。
現在ブームとなっている「人工知能」の基盤技術は「統計的機械学習」である。旧世代の人工知能の考え方が、乱暴な言い方で「論理学の機械化」だったとすると、新世代の人工知能の考え方は「統計学の機械化」である。それによって、従来難しかったにもかかわらず、新しくできるようになったこととはいったい何だろうか?
「理解していないものは作れない」から「見よう見まね」へ
従来は、人間がやっていた仕事を機械化するためには、多くの場合、仕事の基本原理とそのプロセスの勘所がきちんと理解され、言語的に表現された上で、その理解に基づいて機械が設計され、動かされなければならなかった。これは物理的なハードウェアの設計構築についてだけではなく、コンピュータに載せるソフトウェア、プログラムについても同様だった。いや、プログラムにおいてこそ致命的なまでに重要だった。これを短く言うと「理解していないものは作れない」ということだ。
ところがこのやり方では、誰もがいともたやすくやっていて、それゆえ賃金も低く待遇も悪いような仕事であっても、うまく言語化できなければ機械化できない。それゆえに、とても複雑な手順を要する、高度な訓練を受けた人にしかできない仕事より、適当に大雑把にやればなんとかなって、誰にでもできるような仕事の方が、かえって機械化することが難しかったのだ。例えば、猫と犬を、あるいはリンゴとミカンを見分けて仕分けするとか。
普通の視覚があれば、猫と犬を、あるいはリンゴとミカンを見分けることなど、誰にでも容易にできる。しかしながら、「では、あなたはどうやって猫と犬を/リンゴとミカンを見分けているのか?」と問われれば、大概の人は途端に言葉に詰まるだろう。だが、従来のやり方で猫と犬を/リンゴとミカンを見分ける機械を作ろうと思うなら、まずこの問いに答えなければならない。そして、それができなかったからこそ、複雑な計算を一瞬で行うツールがたくさん実用化されてきた一方で、誰にとってもたやすい作業は機械化されてこなかったのだ。
しかしながら、近年の人工知能の考え方である「統計的機械学習」においては、人間が猫と犬を/リンゴとミカンを見分けられる理由を理解することなく、人間と少なくとも同程度にうまく、猫と犬を/リンゴとミカンを見分けることが可能となっている。
「教師あり学習」と呼ばれる手法では、まず人間が分類した猫・犬/リンゴ・ミカンの識別データを大量に与える。それらはいわば、問題(猫・犬/リンゴ・ミカンの画像)と最終的な解答(画像ごとの「猫・犬/リンゴ・ミカン」を示すラベル)だけのセットである。そこには「どうやって問いに答えが与えられたか」の手順の説明はない。回答した人間自身、その手順を知らないのだから。
伝統的な人工知能の考え方は、問題を解く正しい手順を、機械に正確に実装する、というものだった。それに対してここで行われているのは、人間がやっていることを機械にまねさせる(近似させる)ことだ。まねの手順自体は、数理統計学の理論に基づき、あらかじめ人間が正確に機械に実装する。しかし機械が具体的にどのような近似式を最終的に出力するか(つまり、どの程度うまく「見よう見まね」ができるか)は、やってみなければ分からない。
「見よう見まね」の出現は根本的な変化なのか
このような「見よう見まね」「試行錯誤」を、新世代の人工知能によって高速かつ強力に行うことができるようになったので、機械化できる作業、仕事の範囲が格段に増えている。しかしそれは果たして、われわれの社会における「労働」の在り方を根本的に変えるようなものだろうか?
個別具体的に見れば、これまで人の手で行われていた数多くの仕事が、新たに機械に置き換えられ、それが多くの職場の様相を変え、労働市場にも影響を与えるだろう。しかしそのような変化なら、産業革命以降、われわれはたびたび経験してきたのではないか? 動力革命によって、流れ作業によって、科学的管理法によって、ME化によって、そしてインターネットによって……。
これらの手法や技術革新は、もちろん短期的に見れば人間の労働の在り方を大きく変えた。しかしながらそれらの変化は、産業革命以降に支配的となった「人口の大多数は他人に雇われて、報酬のために働く」という、資本主義社会での労働の在り方を、根本的に変えるものではなかったといえる。
もちろん質的な変化はなくとも、量的な変化はあるだろう。かつて人間が行っていた作業が機械によって置き換えられ、そうやって労働需要が、雇用が減って失業が増え、賃金が下がっていくのではないか――そのような懸念がAIに対して寄せられている。しかし同種の疑問は、それこそ産業革命以降ずっと継続して提起されてきた。そしてこれまでのところ、われわれの歴史的経験は「短期的に見れば機械化によって失われた雇用は、長期的に見れば所得の向上によって生み出された新たな需要に吸収され、雇用の絶対数は減ることはなくむしろ増え、賃金も上昇し続けてきた」とまとめることができる。つまり、われわれの知る限り、資本主義的な市場メカニズムは産業革命期から今日に至るまで、基本的には継続している。そうである以上、現下の「AIブーム」の下での機械学習技術がわれわれの労働市場に与えるインパクトも、従来の歴史的経験を裏切るようなものではないだろう。
「汎用人工知能」すら根本を変えるには至らない
現状の人工知能技術の単純な延長上には望むべくもないが、実用上というより学術的関心から行われている自律型の人工知能(汎用人工知能)がもしも実現するならば、そのような人工知能はただ単に人間の道具として使われる、つまりは雇われる労働者のライバルとなるだけではなく、自分の目標のために働く自立した経営者、企業家のライバルとなるかもしれない。もしもそうなったならば、これは何か新しい事態ではないだろうか? もちろんそうだ。それは人類史における新たな1ページを開くだろう。しかしそれは果たして、資本主義を新たな段階に推し進める変化とまでいえるだろうか。
もしも伝統的なマルクス主義のように、オーナー企業家中心の自由主義的資本主義から、法人企業中心の金融資本主義、帝国主義への移行を「資本主義の新たな段階への移行」と呼ぶのであれば、自律型人工知能が経営する企業の出現は「資本主義の新たな段階への移行」かもしれない。しかしそれは資本主義そのものの終焉とは言えまい。人工知能に法人格を与えること自体には、何らの困難も存在しない。あるいはそれもまた法人企業中心の金融資本主義段階の枠にとどまるにすぎない、とさえ言えるかもしれない。
それでも――とあなたは問うかもしれない。本当に現下の機械学習技術の発展が、さらにそれをも超えた汎用人工知能の出現が、資本主義の性質を重要なところで変える可能性はないのか?
人工知能が「ギグ・エコノミー」にもたらしたもの
ここで、俗にいう「ギグ・エコノミー」について考えてみよう。ウーバーなどが代表する「ギグ・エコノミー」と呼ばれる現象は、ひょっとしたらこれまでの資本主義体制の下で支配的な労働取引方式だった「雇用」というやり方を廃れさせ、「請負」の方を主流にしてしまうかもしれない。
マルクスを含めて多くの人々は「資本主義」の定義を「労働力の商品化」、つまりは雇用に求めた。雇用という仕組みの下では、労働者をあくまで自由な主体として扱いながら、雇用契約に書き込まれた限界(労働時間がその中軸)の範囲内で、かつての奴隷に対するのと同じような包括的な指揮命令権を雇い主は手にすることができる。
なぜそのような、他人に対するかなり一方的な支配が、限界付きとはいえ自由な契約によって可能になるのか、また必要とされるのか? それは企業家が、自分の事業のために必要な仕事を自分ですることができず、他人の手を借りなければならないときに「必要な時に、必要なサービスを、必要なだけ」市場から購入することができないからだ。情報を得るにも処理するにもコストがかかる世界では、多様な仕事を臨機応変に遂行するためには、いちいち外部の市場から個別の仕事をサービスとして購入するよりも、一定の人材プールを絶えず手元に置いておき、必要に応じていろいろな仕事をしてもらう方が安くつく。しかしこのやり方はもちろん、待機人員を常に抱え込んでおくというコストを強いられる。この抱え込みによる生活保障は、指揮命令への服従への対価でもある。
「ギグ・エコノミー」の下では、インターネットの普及と人工知能(を含めたコンピュータパワーの向上)によって、情報収集・処理コストが格段に下がり、労働者を固定的に雇って常に待機させておかなくとも、細切れの仕事をやってくれる労働者を外部から臨機応変に探すことができる。なおかつ、やるべき仕事はあらかじめ具体的に固定されているから、いちいち細かい指揮命令を下さずとも「請負」の形で委ねることができる。ここで個別の仕事を請け負う労働者は、雇用労働者とは異なり指揮命令に服従する必要はない。しかしその代わり、生活を保障されることもない。
20世紀中葉までは、技術革新についていくためには、企業は一定の中核的労働者を固定的に雇い続けなければならない、と考えられていた。しかし現代の人工知能は(「汎用人工知能」のはるか手前の段階ですでに)、そのような常識を掘り崩しつつある。企業の雇用の在り方、労働の在り方を変容させる可能性があるという点では、人工知能がもたらす影響は、雇用の短期的な減少よりも「ギグ・エコノミー」に象徴されるような構造変化の推進力となっていくことの方が大きいのではないだろうか。