2022年02月25日掲載

Point of view - 第199回 松本紹圭 ―インタービーイングの視点を企業人事に ~仏教的世界観×AIによる、これからの社会~

インタービーイングの視点を企業人事に
~仏教的世界観×AIによる、これからの社会~

松本紹圭 まつもと しょうけい
現代仏教僧

1979年生。現代仏教僧。東京大学哲学科卒。世界経済フォーラムYoung Global Leader。武蔵野大学客員准教授。インド商科大学院にてMBA取得後、お寺経営塾「未来の住職塾」を開講し700人以上の卒業生を輩出。著書に翻訳書『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』(あすなろ書房)ほか。noteマガジン「松本紹圭の方丈庵」、podcast「テンプルモーニングラジオ」配信中。

 米国ワシントンの友人から「僧侶をオフィスに派遣してくれないか」と相談を受けたのは、2020年のはじまりだった。その直後、図らずも、世界はウイルスによる動揺の中、従来の社会的常識を問い直す時を迎えた。ワシントンへの僧侶派遣はやむなく中断したものの、今、産業界から僧侶の存在が求められる機会は急激に増えている。仏教に親しむ経営者はこれまでも珍しくなかったが、企業経営に仏教的思想を取り入れようという具体的な動きが各地で生まれているのだ。2022年を迎えて、私の周辺では「産業医」ならぬ「産業僧」という新たな言葉が確立しつつある。

 なぜ、今「産業僧」が必要とされているのか。

 経営者であれば誰しも、自らの企業活動を支え、共に創造するスタッフをいかに育てるか試行錯誤を重ねているに違いない。「社員には健康で幸せに働いてもらい、良きパフォーマンスを発揮してほしい」そう切実に願って、組織の拡大に併せて人事施策から福利厚生まで、制度を整えることに尽力してこなかった経営者はいないだろう。

 しかし、課題は尽きない。信頼を寄せていた期待のスタッフが組織を離れていく。評価制度を充実させるほど、評価を巡って感情が揺れ動き、信頼関係は崩れていく。ハラスメントの相談やメンタル面の不調が相次ぎ、休職や退職を余儀なくされるスタッフも少なくない。

 人材開発とメンタルケア。社内リソースを投入して制度を充実させたにもかかわらず、一向に全体のウェルビーイングは向上しない。時代に応じたイノベーションを目標に掲げて組織改編を行うも、現場の閉塞感が否めない。そんな状況に陥っている組織は、多いのではないか。

インタービーイングの視点から、働く人々の抜苦与楽を

 KPIを用いた業績評価やエンゲージメント測定のほか、行動指標に基づく社員の個別評価制度は、昨今の企業人事の定石となってきた。組織の中長期目標に合わせて、社員はそれぞれに個人目標を設定し、その達成状況や在り方まで、自ら数値化して報告しつつ、会社や上司から評価を受ける。結果に応じて、社員は個別に日頃の勤務態度の見直しや研修参加など、不足を補うための改善提案を求められる。

 能力、実績、課題――なにごとも明確にして「個人」という単位にその責任を課してきたのが、現代社会だ。こうした、物事を個別具体的に個人にひも付くものとして捉える「個」×「所有」の概念が、現代の私たちの世界観をつくってきたとも言えるだろう。しかし、今、その限界がさまざまな場面で露呈している。人材開発と業績向上を目的とした施策の先に、皮肉にも、スタッフのメンタルの不調やパフォーマンス低下、組織全体の機能不全といった問題が起きているのだ。

 仏教的世界観は、存在そのものを「関係性の上に立ち現れるもの」と見る。ベトナムの僧侶ティクナット・ハンは、人間の存在を「interbeing(間に存在するもの)」という言葉で表現した。大乗仏教でいう「縁起」「空」から見ると、存在とは、そこに宿る感覚、感情を含めて、あらゆる関係性によって顕現する集合的な現象だ。どんなに「個人」に対して物差しを当てたところで、測定し得る数値は、ごく限られた一面に現れる瞬間的な点でしかない。仏教的世界観から見れば、従来の人事施策における根本的な存在の捉え方自体に、無理があると言えるだろう。

AIにより、異なる視座から関係をみる

 産業僧は、「1on1の対話」を取り組みの基本とする。医師のように個人を診断して処方箋を出すこともなければ、コーチとして共に課題解決に取り組みゴールを目指すこともない。対話を共にする僧侶自ら意図や評価を手放して、一人ひとりが「社員」から降りる時間、あえて言うなら「目的なき時間」を共にする。対話の内容は一切、企業側と共有しない。対話で生成される音をAIによる音声感情解析にかけ、積み重なる音の層から、ありのままの状況をみる。

 これは、見えないものをすべてデータ化して把握しようというものではない。組織が大きくなれば、個人の放つ声を拾いきれずに、問題となって現象化するまで気付けないこともある。枠を解いたところに生まれる音の集積から、AIの力を借りて「あわい」に漂う質感や熱量を可視化しようというものだ。対話に当たる僧侶の、生身の感触。そして、データに現れる音の色味、深度、変動具合。人間が認知し得る現実と、AIが統計的観点から認知する現実の双方から、状態をinterbeing(関係性の上)に捉える新たな視点を組織に導入する試みである。

 個人に限定しない関係性を観察しながら、環境の調整を行って、個の連なりが「開発(かいほつ)」されていくのを、待つ。

信じて共に待つ「開発(かいほつ)」

 「開発」とは元々仏教用語で、「かいほつ」と読む。何を「かいほつ」するかというと、仏教においては「菩提心」、つまり悟りを求め、仏になろうと願う心である。心は「起こそう」「起こさせよう」として生じるものではなく、「起こってくる」「やってくる」「自ずと生じてくる」ものだ。そこに共にあろうとするのが、仏教的な開発である。種に宿るものを信じて、芽吹く環境を整え、見守る。機能を高め、能力を向上させようと働き掛ける現代社会が求める"開発(かいはつ)"とは異なる。

 友人の数学者 森田真生さんは、「安心」と「信頼」について次のように話す。「安心」は不確実性を排除したところにあり、「信頼」は不確実性の上に構築するものだと。確かな点数を獲得しにいくことは、不確実性の排除を目指すことでもある。安心を(つか)みにいくともいえるだろう。対して「信じる」とは、不確実性を前提に「どうなるか分からない。分からないが、何とかなる。だから一緒に待ってみよう。」と、そんな感覚を共有することだ。

 「気づけ」「成長せよ」という周囲からの働き掛けは、圧力にほかならない。同時に本人が「気付きたい」「成長したい」という"求め"に執着すれば、最後の扉は開かれない。利他的行為、許し、感謝、謝罪なども同様である。信じて、共に待つ。それだけでいい。
 そうした信頼の土壌に響き合う音こそが、ウェルビーイングであり、本質的なイノベーションはここから起こるだろう。

所有社会を終えて迎える、「私たち」が育つ世界

 「個」に属する所有の概念や、論理やエビデンスによる証明ばかりが判断基準であった世界は、終わろうとしている。合理的な設計で得られたものは、ひととき限りのスッキリ感や満足に過ぎなかったように思う。見える世界を細分化して、個別の解決策で問題を解消しようという思考社会の限界を受け入れる時だろう。

 私たちは、「個」が背負った枠組みや所有と、それに伴う責任から解放されたとき、「私」の意識は緩やかになり、自然と主語は複数形になっていく。「"私たち"が育っていく」という意識転換の序章を迎える中で、誰もが声を放てる土壌を耕したい。昨今の産業僧の急速な広がりは、世界からの要請のようにも思う。産業界に起きている変化は、社会を変える糸口になるだろう。

 人間の技術発展は止むことがなく、放っておけば社会はどんどん個別化、明確化、短期化へと寄っていく。2500年を背後にした仏教的世界観は、次なる時代に求められている。「古の叡智」をもってオルタナティブな見解を提示できるよう、今ここにある関係性から生じる音に、まずは私自身、耳を澄ませよう。