浅野浩美 あさの ひろみ
事業創造大学院大学
事業創造研究科教授
1.はじめに
人的資本経営、人的資本情報開示、職場における学び・学び直し支援などといった言葉が世間をにぎわせている。既に「人材版伊藤レポート2.0」(2022年5月)に続き、「人的資本可視化指針」(2022年8月)が公表されている。近々見込まれている内閣府令の改正・公布がなされれば、2023年3月31日以後に終了する事業年度に係る有価証券報告書等から適用され、人的資本・多様性に関する情報等の開示が求められることとなる。2023年度には、「職場情報の開示に関するガイドライン(仮称)」も策定されるようだ。企業の関心が高まるのも当然のことであろう。
では、ここにきて、なぜ企業は、ヒトへの投資、従業員の能力開発に力を入れるようになったのだろうか。
2.調査結果から見たヒトへの投資
人的資本経営に当たって、まず必要なのは、経営戦略と人材戦略の連動である。そのためには、目指すべきビジネスモデルにおいて必要とされる人材と、現時点での人材との間のギャップを把握し、これを埋めていくことが必要となる。その際、それをどのように進めるかについて、しっかり考えることが必要である。より具体的な言い方をすれば、こういう人材が必要ということを明らかにし、こうやって確保する、こうやって育てる、といった戦略を立て、戦略に沿って計画的に進めていくことが必要だ。
では、企業は、従業員の能力開発に対して、戦略を立て、それに沿って計画的に取り組んでいるのだろうか。厚生労働省「能力開発基本調査」で、事業内職業能力開発計画※1の作成について見てみよう。
※1 事業主がその雇用する労働者に係る職業能力の開発および向上が段階的かつ体系的に行われることを促進するために作成する計画のこと。職業能力開発促進法11条に規定されている。
事業内職業能力開発計画と言われても、ぴんと来ないかもしれないが、これは、職業能力開発促進法11条に努力義務として規定されているもので、従業員の能力開発を段階的・体系的に進めるための計画である。努力義務として定められているものだが、直近の調査である「令和3年度 能力開発基本調査」(以下、令和3年度調査)を見ると、「すべての事業所において作成している」とする企業は14.2%、「一部の事業所においては作成している」とする企業が7.6%であり、この両方を合わせても全体の4分の1に満たない。「いずれの事業所においても作成していない」とした企業が77.7%と、約8割を占めているのである。
これを企業規模別に見ると、同計画を作成している企業の割合は、30~49人規模で17.1%、50~99人20.1%、100~299人27.9%、300~999人32.3%、1000人以上44.3%と、規模が大きくなるに従って、その割合は高くなっている。しかし、1000人以上規模でも、計画を作成している企業は2分の1に満たない[図表1]。
[図表1]事業内職業能力開発計画の作成状況
資料出所:厚生労働省「令和3年度 能力開発基本調査」([図表4]まで同じ)
令和3年度調査は、2021年10月1日時点の状況を調べたものであり、実績はその直近1年間のものである。1年あまり前のデータということになるが、それでも、2020年以降、人的資本の重要性が叫ばれるようになっているのに、この数字というのはどういうことだろうか。
社内で従業員の能力開発を進めるためには、責任を持って推進する者が必要である。職業能力開発促進法には、職業能力開発推進者※2(以下、推進者)についても定めがあり、こちらも努力義務である。
※2 事業内職業能力開発計画の作成およびその実施に関する業務、職業能力開発に関し、その雇用する労働者に対し行う相談、指導等の業務などを行う者のことで、選任することが事業主の努力義務とされている。職業能力開発促進法12条により規定されている。
令和3年度調査によると、「すべての事業所において選任している」とする企業は10.8%、「一部の事業所においては選任している」とする企業が7.0%である。この両方を合わせても全体の5分の1に満たず、「いずれの事業所においても選任していない」企業が81.6%と大半を占める。企業規模別に見ても、30~49人14.0%、50~99人18.7%、100~299人21.2%、300~999人22.9%、1000人以上28.7%と、規模が大きくなるに従い高くなっているが、1000人以上規模でも7割以上の企業が推進者を選任していない。また、その選任方法を見ると、「本社が職業能力開発推進者を1人選任し、すべての事業所について兼任させている」とする企業が62.6%で最多となっている[図表2]。
[図表2]職業能力開発推進者の選任状況
3.ヒトへの投資を進めていくために
経済産業省が行った「人的資本経営に関する調査」(2022年5月)を見ると、経営陣は、従業員に比べ、人的資本経営の取り組みについて「進捗していない」と認識しているようだ。経営陣は、人的資本経営に対して、強い問題意識を持っているが、それだけに「進捗していない」と考えているということだろう。
問題意識を持つことは重要である。しかし、問題意識を持つだけでは、人的資本は向上しない。企業として、何に力を入れ、どんなビジネスモデルを目指すかを決め、求める人材像を示す必要がある。しかし、それだけでは不十分だ。さらに、実現可能な計画を立て、責任を持ってそれを推進する者を定めることが必要である。実施に当たっては、専門のコンサルティング会社、研修会社の力を借りることもあるかもしれないが、そうした場合であっても、専門の会社と渡り合える人材が必要である。さらに、企業として、その人材を支えることも求められるだろう。
「従業員は問題意識を持っていない、ついてこない」と認識している経営者、人事パーソンも多いかもしれない。しかし、令和3年度調査の従業員調査によると、従業員全体の93.2%が「向上させたい能力・スキルがある」と回答している(正社員96.1%、正社員以外88.0%)[図表3]。この数字は、この項目を調べ始めた令和元年度以降、連続して高い水準にあり、さらに、これまでのところ、少しずつではあるが上昇している(令和元年度89.5%、令和2年度91.8%)。実際にどこまで取り組んでいるか、それが会社が求めることとどのくらい合致しているかはともかく、従業員たちのほとんどは「能力・スキルを向上させたい」と思っているのである[図表4]。
[図表3]向上させたい能力・スキルがあるとした者の割合
[図表4]正社員の向上させたい能力・スキルの内容(複数回答、三つまで)
感情や主体性を持つがゆえに、ヒトは時代を経ても変わらないことが多く、マネジメント手法が革新的に変わることはまずあり得ないとされる(上林、2012)。
目指すべき人材像を明らかにし、計画的に取り組む。さらに、責任を持って推進する者を定める。それが機能するよう、各事業所にもこれを推進する者を置き、職場のリーダークラスを巻き込む。キャリアコンサルタントなど専門家にサポートしてもらうのもよいだろう。ヒトである従業員たちは、それぞれに「能力・スキルを向上させたい」という気持ちを持っている。企業が目指すビジョン・経営戦略をあの手この手で伝え、求められていることと学びたいことをすり合わせていく。変わり映えがしない感じがするかもしれないが、特効薬はない。今こそ従業員の能力開発に地道に丁寧に取り組んでいくことが求められる。
【参考文献】
・厚生労働省「能力開発基本調査(令和元~3年度)」
・厚生労働省「『賃上げ・人材活性化・労働市場強化』雇用・労働総合政策パッケージ」(令和4年10月28日)
・経済産業省「人的資本経営に関する調査」(令和4年5月)
・上林憲雄(2012)「人的資源管理論」日本労働研究雑誌, 54(4), 38-41.
浅野浩美 あさの ひろみ 事業創造大学院大学 事業創造研究科教授 厚生労働省で、人材育成、キャリアコンサルティング、就職支援、女性活躍支援等の政策の企画立案、実施に当たる。この間、職業能力開発局キャリア形成支援室長としてキャリアコンサルティング施策を拡充・前進させたほか、職業安定局総務課首席職業指導官としてハローワークの職業相談・職業紹介業務を統括、また、栃木労働局長として働き方改革を推進した。 社会保険労務士、国家資格キャリアコンサルタント、1級キャリアコンサルティング技能士、産業カウンセラー。日本キャリアデザイン学会理事、人材育成学会理事、経営情報学会理事、国際戦略経営研究学会理事、NPO法人日本人材マネジメント協会執行役員など。 筑波大学大学院ビジネス科学研究科博士後期課程修了。修士(経営学)、博士(システムズ・マネジメント)。法政大学キャリアデザイン学研究科非常勤講師、産業技術大学院大学産業技術研究科非常勤講師、成蹊大学非常勤講師など。 専門は、人的資源管理論、キャリア論 |
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