荻野 登 おぎの のぼる 1982年日本労働協会(後の日本労働研究機構)入職、在米デトロイト日本国総領事館勤務(94~97年)、『週刊労働ニュース』編集長(2000~03年)などを経て、03年独立行政法人労働政策研究・研修機構発足とともに調査部主任調査員(月刊『ビジネス・レーバー・トレンド』編集長)となる。その後、調査・解析部長、主席統括調査員を経て、17年4月労働政策研究所副所長に就任、19年4月より現職。著作・論文として、『平成「春闘」史』(経営書院、第39回〔2019年〕日本労働ペンクラブ賞受賞)、『企業競争力を高めるこれからの人事の方向性』(共著、労務行政)、「企業業績と賃金決定─賞与・一時金の変遷を中心に」(労働政策研究・研修機構『日本労働研究雑誌』2020年10月号所収)ほか多数。 |
政労使、異例の賃上げ積極姿勢──「5%」は実現するか
昨年秋ごろから経営側が、今年の春季労使交渉(春闘)に向けて、賃上げに積極的な発言を相次いで行っている。1月17日に発表された経営側の交渉指針となる経団連(十倉雅和会長)の『2023年版経営労働政策特別委員会報告』でも、今季交渉を「『人への投資』促進による構造的な賃金引上げを目指した企業行動への転換を実現する正念場かつ絶好の機会」と位置づけ、「物価動向」を重視した賃上げを呼び掛けている。
対する連合は、昨年を上回る「5%程度」の要求(定昇込み)を掲げ、岸田首相も「ぜひ、インフレ率を超える賃上げの実現を」と、エールを送る。
政労使とも、賃上げに向けてここまで積極姿勢を示した春闘は過去に類例がない。そして、今季交渉が「転換点」であるという位置づけも共通している。
足元の物価(例えば東京都区部の場合、昨年12月の総合指数・生鮮食品を除く総合指数はともに前年同月比4.0%増〔中旬速報値〕)をベースに考えると、民間主要企業の賃上げ率(厚生労働省集計)が5%に近かったのは直近では約30年前の1992年(4.95%。なお、91年度の生鮮食品を除く総合指数は、全国平均で前年度比2.6%増)であるから、同程度の賃上げ水準が必要になる。30年前といえば、最近よくなされる、「なぜ日本の賃金水準は上がらないのか/上がらなかったのか」という議論のスタート時点とも重なる。そこで、まず、労使関係を軸に、この間の歴史を振り返ってみたい。
「高い日本」から賃金水準の見直しへ
30年前は、ちょうどバブル崩壊後の長期経済低迷が始まった時期だった。
現在と大きく異なるのは、当時は「安い日本」ではなく「高い日本」だったこと。地価の高騰と円高によって、東京の物価水準は、ニューヨーク、ロンドンなどと比較して、5割近く割高だった。このため、90年、連合と当時の日経連(日本経営者団体連盟。2002年に経団連と統合)は、連名で「内外価格差解消・物価引下げに関する要望」を政府に提出する。
しかし、現状を見ても言えるとおり、“為替レートが円安になれば、内外価格差は縮小する”(1995年『経済白書』)ことは、明らかだった。
物価だけでなく、賃金水準の見直しも進んだ。日経連はバブル期に初任給が急上昇したため、「学卒初任給の現行水準への据え置き」を提起(90年)。94年には就職氷河期に入っていたことから、「初任給引き下げ」によって、採用数を維持するよう会員に求めた。さらに、円高によってドルベースで見た製造業の賃金水準が世界トップクラスだったこともあり、水準引き下げの是非にまで、議論が進展する。
93年からは、景気の悪化が深刻となり、大手企業で、早期退職・希望退職募集の発表が相次いだ。また、年功的賃金の見直しの一環として、管理職の年俸制導入に始まり、成果・業績主義へのシフトが強まる。
労働組合側は「経済整合性論」の成功体験から脱却できず
日本的労使関係の大きな転換点となったのは、第一次石油危機(73年)だろう。20%超の狂乱物価を受け、74年の春闘賃上げ率は大幅上昇(32.9%:前掲厚生労働省集計)する。こうした大幅賃上げを継続すると、欧米が陥っていた物価高と景気後退が同時進行するスタグフレーションに陥ることが懸念されたため、労働組合側は国民経済との整合性を重視した自制的賃金要求である「経済整合性論」に転換。翌75年の賃上げ率は13.1%に低下する。日本は欧米を尻目に安定成長に移行したことから、“ジャパン・アズ・ナンバーワン”と称賛される。
労働組合側が、マクロ経済に準拠した「経済整合性論」による「物価上昇後追い型」の春闘を展開したことが、経済安定に寄与した。その後も労働組合は同路線を維持したが、その生みの親である鉄鋼労連顧問 千葉利雄は「底なしインフレを防ぐための選択であり、マクロ経済との整合性に優先度を置くのは、労働運動のバイタリティーを失わせる」(1990年『週刊労働ニュース』)と批判した。
90年代に入り、インフレからデフレに局面が変わり、労働組合側の物価上昇を前提とした要求方式が有効性を失う。そして、長期化する不況を脱するため企業は、「設備・債務・雇用」の三つの過剰解決が優先課題となり、労働組合も賃金ではなく、雇用優先に軸足を移す。
労働組合運動も「デフレ型」が定着
昨年から強まった、各国におけるインフレへの対応では、欧米の労働組合はストライキを打ち、賃上げを求めているが、日本ではストライキを背景に賃上げを求める組合は見当たらない。とはいえ、戦後からオイルショックまでのインフレ下では、日本でも争議行為を伴う「春闘」が展開された。
辻村江太郎(当機構の前身・日本労働研究機構会長)著『円高・ドル安の経済学』(岩波書店、1987年)では、それをインフレ型労働組織(米国)(以下、インフレ型)、デフレ型労働組織(日本)(以下、デフレ型)に分類し、解明している。米国のインフレ型においては、労働組合による大幅賃上げ要求を製品価格の引き上げで転化できる企業の市場支配力が強いため、賃上げ圧力が物価上昇の一因となる。
一方、日本のデフレ型では、企業間競争の圧力が高く、企業別労働組合を主体としていることもあり、エネルギー・原料価格等のインフレ圧力に対し、労働組合が賃上げを抑制することで「中和」する形となっている。しかし、辻村は「価格競争力をフルに発揮できないような状況が現出すると、ただちにデフレ体質は顕在化する」とし、その後のデフレ不況を予測した。
デフレ型の対応は、オイルショックを克服するには有効だった。しかし、バブル経済の崩壊後、各社ともコストカットが至上命題となり、デフレの長期化とともに、組合の対応においても、さらなる「デフレ型」が際立つようになる。
もともと労働組合は「生活者の論理」、企業は「経営者の論理」の正義を掲げ、対立するものだ。昨今の物価をめぐる対応では、労使が逆転している感もあるが、対立から新たな調和を生み出すことが転換点に当たっては必要だろう。
「人への投資」と合わせて必要な「研究開発・設備投資」
石油危機前の春闘を振り返ると、物価ではなく「生産性向上後追い型」だったことが明らかだ。岸田政権が掲げた「資産所得倍増プラン」は、高度経済成長期に池田勇人政権が打ち出した「所得倍増計画」がモデルといわれるが、当時はまさしく「生産性向上」による経済成長の果実を「賃上げ」に分配した時代だった。
では、今、こうした循環を生むためには何が必要なのだろうか。昨年の春闘で労使は「人への投資」の必要性については合意形成できたという。そして、それをベースに岸田政権は「人への投資」から高スキル人材の確保、さらに生産性向上につなげる「構造的賃上げ」を標榜する。
コロナ禍で日本のデジタル化の遅れが顕在化したが、経済が停滞したこの間、賃上げと同様にIT関連の研究開発・設備投資でも日本は各国の後塵を拝してきた。今季の労使交渉で足元の物価高への対応は重要だが、賃上げを継続させるためには、やはり労使が企業の成長に不可欠なデジタルと環境を融合させた成長へのベクトル合わせをすることが不可欠になるだろう。
ある証券会社の分析では、過去の賃上げ動向を分析すると、物価より企業の期待成長率のほうが賃上げに寄与しているという。デフレ下にあっても過去19年連続でベアを実施してきたニトリは30年間という長期の経営計画を立て、店舗数を拡大させ、労働生産性も着実に向上させてきた。
労使ともマインドの転換とともに、中長期的なベクトル合わせをすることが今季交渉では重要になるのではないだろうか。