2023年12月22日掲載

Point of view - 第243回 大江加代―人的資本向上に寄与する金融教育とは

大江加代 おおえ かよ
株式会社オフィス・リベルタス
代表取締役

確定拠出年金アナリスト。特定非営利活動法人 確定拠出年金教育協会理事兼主任研究員。大手証券会社に勤務していた22年間、一貫して給与所得者の積立による資産形成業務に携わる。2012年に独立し、資産形成、投資信託、確定拠出年金(企業型DC/iDeCo)、定年前後のマネープランをテーマとする講演を中心に執筆活動も行っている。2022年の内閣官房「資産所得倍増分科会」では委員を務めたほか、厚生労働省「社会保障審議会 企業年金・個人年金部会」の委員でもある。

職場での金融教育への注目度が急上昇

 この数年の人的資本の向上という流れの中で、職場での金融教育がにわかに注目されるようになっている。そもそも、「人」をコストではなく価値を生み出す「資本」「資産」と多くの経営者が捉えるようになったのは2018年ごろからではないだろうか。昔は経営の大号令の下、大量生産すればもうかった時代であったが、モノもサービスも充足した今の世の中では、個人の求めに深く訴求するものでなければ売れない時代となった。だからこそ、“ダイバーシティといわれる多様な価値観”や、“社員一人ひとりの創意工夫の下、付加価値の高いサービスを生み出せる職場環境”といったことが、長期的な企業競争力上に不可欠なものとして経営者にも認識・重視されつつある。さらに、投資家も「人的資本経営」についての開示を求めるようになっており、経営としてビジネスモデルや経営戦略と人材戦略を連動させるような動きがこの数年急激に加速している。

 この流れは、職場で金融教育・福利厚生関連の情報提供を行う上では追い風だ。バブル崩壊以降は人件費がコストとして絞られ、福利厚生についても予算や時間を割きにくい環境だった。しかし、社員が前向きに新しい付加価値を生み出すような働き方をするためには、ファイナンシャル・ウェルビーイング(経済的な安心感がある状態)が欠かせないことは明らかだ。マズローの5段階欲求説で語られているように、人間は「生理的欲求」と「安全の欲求」が満たされてこそ、社会を意識した「社会的な欲求」や社会に認められる「承認欲求」を求めチャレンジングな発想と行動をし、生産性の高い働き方をする。経済的な安心は「人的資本向上」に不可欠だ。

社員の安心につながっていない、手厚い福利厚生

 一方、安心につながるはずの手厚い退職金制度や福利厚生について社員が認識しているかというと、これまでは残念ながらあまり知られていなかった。特に退職金制度は、終身雇用が続く中で「老後のことは会社に任せておけば安心」という風土が育まれてしまっていたため、定年まで知る機会を提供しないケースが一般的だった。その結果、退職金、特に企業年金について、“自身がいくら受け取ることができるのか不明”といった人が増えている。実際、野村総合研究所が2020年に行った「積立に関するアンケート調査」結果によると、55~59歳でも会社員や公務員の4割が「受け取り見込み額が分からない」と回答している。老後の不安を解消する大きな要素である退職金・企業年金について知らず、定年後にこれらを受け取るまで勤務先への感謝の気持ちを抱くこともなく、老後の暮らしについて経済的な不安を抱えつつ働いている、というのはもったいない話だ。

 日本の場合、良いか悪いかは別として欧米のような金銭解決型の雇用調整が法制上はできないだけに、正社員として雇用されている人たちの雇用は手厚く守られており、本来、チャレンジングな働き方ができるはずだ。社員だからこそ享受できるbenefitを認識して経済的な安心を得てもらうこと、これが人的資本としての価値を高める金融教育だと思う。具体的には、自社の福利厚生制度・退職金制度と、さらにそれを下支えする日本の社会保険を理解し、活用してもらえる状態にする、ということに尽きると思う。

金融教育における会社と社員の認識ギャップ

 現在職場で行われている金融教育といえば、企業型確定拠出年金制度(以下、企業型DC)を導入している企業における“企業型DCの継続教育”が挙げられる。その実施状況を見ると、過去3年以内に継続教育を実施した企業が58.9%、従業員数1万人以上の大企業では87.3%とほぼすべての企業が行っている(特定非営利活動法人確定拠出年金教育協会「企業型確定拠出年金担当者の意識調査(2023)」)。一方、教育を受けている社員側に行った調査によると、継続教育を受けたとの回答は1割程度にとどまっている(公益財団法人年金シニアプラン総合研究機構「厚生年金の加入者における企業型確定拠出年金とiDeCoに関する調査〔2021年5月調査〕」)。この大きなギャップの背景にあるのは、企業側の継続教育を実施する目的が“法令上定められている実施義務を果たすこと”になっており、手間と費用がかからないイントラネットなどへのPDFや動画掲載を“教育”として、お茶を濁すケースが多いからだ。これでは関心がある人しか見にいかない。また、セミナーを実施するにしても、任意参加形式だけでは関心が高い一部の人しか参加せず、多くの社員にとって老後の安心を得るような知識や情報に触れることにはならない。これでは人的資本を高めるような教育を実施したとはとても言えないと思う。

誰も取り残さないサステナブルな金融教育を

 サステナブルな形で中長期に人的資本を向上させるためには、キャリアやコンプライアンスなどの必須研修、営業報告会議など「お金」と一見関係のない場を活用した金融教育の実施がよい。基礎的な情報を短時間で提供することによって、数年または10年近くをかけてでも全員に必要な情報を定期的に提供できる体制を構築することが肝要だ。開示の指標も、「セミナーの実施回数」や「掲載コンテンツ数」ではなく、社員の経済的安心感や情報掲載ページへのアクセス数などが望ましいと考える。

 職場での金融教育は、一般論ではなく、自社の報酬体系やbenefit(天引きによる資産形成制度、団体保険など)に基づいた具体的な情報が提供されるので、自分ごととして理解しやすく、経済的な安心感が得られやすいといった特長がある。職場における金融教育に力を入れていない企業は、来年度はぜひ時間と予算を取って、社員への金融教育を経営戦略上の取り組みとして実施してみてほしい。