寺島有紀 てらしま ゆき 一橋大学商学部卒業後、楽天株式会社に入社。国内・海外子会社の社内規程管理、内部統制業務や社内コンプライアンス教育等に従事。社労士事務所勤務を経て、現在はスタートアップから上場企業まで幅広く労務顧問、労務コンプライアンス整備、海外進出労務体制構築等の人事労務コンサルティングを行っている。 |
はじめに
国立社会保障・人口問題研究所の人口将来推計によると、2050年には日本の人口は2024年現在より約2000万人減ることが予想されており、労働力のボリュームゾーンである生産年齢(15~64歳)人口も、2050年には2020年比で2000万人程度減少することが見込まれている。既に労働力不足はさまざまな業種で深刻化しており、政府は既存の労働力を少しでも掘り起こそうと、多様な施策を進めている。
2023年10月からは、パート等で働く人が一定の収入を超えると手取り収入が減ってしまうという、いわゆる「年収の壁」問題を解消するため、「年収の壁」を意識せず働けるような施策をする企業への助成金制度が開始されている。また、年金の受給対象である高齢者が就労した場合に、一定の賃金があると厚生年金が減らされてしまう在職老齢年金制度についても、当該制度が高齢者の就労意欲を阻害しているとして、目下見直しの議論が行われている。
このような中、不妊治療をする社員への支援も、労働力不足の解消に向けて注目されるテーマの一つとなっている。2021年に次世代育成支援対策推進法に基づく行動計画に“盛り込むことが望ましい事項”として追加されて以降、新たな認定制度「くるみんプラス」が創設され、不妊治療と仕事の両立施策に取り組む企業に対して助成金制度が開始されるなど、この数年で国の施策も進んでいる。2022年4月から不妊治療の保険適用がスタートしたことも記憶に新しい。
企業においても、目の前にある人手不足という課題に対応するため、より魅力ある職場づくりに取り組む企業は増えている。中でも、従業員の「不妊治療と仕事との両立のための環境づくり」に取り組む企業が続々と現れてきている。
企業で求められる不妊治療と就労の両立支援策
不妊治療は、月経周期ごとに頻繁な通院が求められていることに加え、排卵周期に合わせた適切なタイミングでの通院が求められる特徴があり、これらが従業員の就労との両立を難しくしている。
厚生労働省が平成29年度に行った「不妊治療と仕事の両立に係る諸問題についての総合的調査研究事業」のアンケート結果によると、不妊治療をしたことがある(または予定している)労働者の中で、「仕事との両立ができなかった(または両立できない)」人の割合は35%と高くなっている。企業においては、このような不妊治療の特徴に対応するような労務施策の導入が求められる。実際に仕事と不妊治療を両立する上での会社への希望として、①不妊治療のための休暇制度、②柔軟な勤務を可能とする制度が上位に来ている。
具体的には、不妊治療も対象となる休職・休暇制度の導入や半日単位・時間単位の年次有給休暇の取得制度、またはフレックスタイム制のコアタイムをなくすような制度、リモートワーク制度等が挙げられよう。
なお、不妊治療と聞くと女性の問題として捉えられることはいまだに多いように感じるが、WHOの調査によれば、不妊症全体の中で男性が原因となる場合は48%にも及ぶ。つまり不妊治療は女性だけの問題では決してないのであり、両立支援制度を整備する際は、当然のことながら男性が除外されることのないような制度設計が必要となる。
企業において従業員への不妊治療への対応が難しい理由
上記の厚生労働省の調査によれば、不妊治療を受けていることを「職場に一切伝えていない(伝えない予定)」とする人が約58%にも上るという。理由は「不妊治療をしていることを知られたくないから」が最も多くなっている。不妊や不妊治療に関することは、風邪等とは異なり、個人のプライベートに関わるセンシティブな情報である。実際に、直属の上司にさえ相談がためらわれるとして、人事労務部門にダイレクトに相談が来るという話は耳にする。
また、職場でオープンにしていない理由の2番目として「周囲に気遣いをして欲しくないから」が、前述の「知られたくないから」に迫るほどの回答数があった。「配慮されることがためらわれる」「もし治療が実らなかったときには、周囲に気を使わせてしまう」のような従業員の声は、企業のアンケート等でも聞かれるところである。このように、実際に当事者の声が拾いにくいという現状が、企業の不妊治療の施策をより難しくしている。
どのように対応していけばいいのか
仕事と、まとまった休職や不妊治療休暇を組み合わせた両立支援策が、パッケージの一つとしてあったほうが良いのは疑いない。しかし一方で、「いかに普通に働くことができ、治療していることをそもそも周囲に伝える必要もなく、遠慮しなくて済むか」を実現できるように、働き方自体の柔軟性を極限まで高めることが、先が見通しにくく、かつ経済的にも負担が大きい不妊治療において、企業・従業員双方にとってより持続可能性の高い本質的な対応なのではないかと考えている。
例えば、フレックスタイム制を一つの例にすると、コアタイムがない企業でも“深夜帯の勤務は基本的に認めない”とする企業はかなり多い。これは労働安全衛生法で定められている、深夜業に従事する労働者にも健康診断義務が発生する――といった健康管理の側面や、深夜割増賃金の発生等のコストの側面でも当然なことではある。しかし一方で、現状でも育児・介護中の従業員等からの「昼間できなかった業務を深夜に行いたい」といったニーズは、実は労務現場ではよく聞かれる。
実際に、フレックスタイム制が適用され、かつ、病気治療や育児・介護等の事情がある社員について、深夜の稼働を“原則1カ月●時間までは認める”といった、かなり踏み込んだ運用を始めている企業も存在する。なお、当然のことではあるが、こうした企業では従業員の同意や法律上の健康診断等の履行、企業の安全配慮義務の履行を前提としている。
自社の状況に応じてではあるが、不妊治療当事者のみならず多くの従業員の声を拾い、より前例にとらわれない踏み込んだ柔軟な労働環境づくりに取り組むことが、不妊治療という文脈だけではなく、今後到来する未曽有の人手不足時代において、企業に大きなプラスの効果をもたらすのではないかと考えている。