南谷健太 みなみたに けんた 東京大学経済学部経済学科卒業、慶応義塾大学法科大学院修了、ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程修了。現在、スタンフォード大学ロースクール法学修士課程に留学中。労働法・ヘルスケア法務等、人々の健康に関わる幅広い法分野において豊富な経験を有する。著書に『労働事件ハンドブック改訂版』(共著、労働開発研究会)等多数。人事労務分野で「The Best Lawyers in Japan: Ones to Watch」を受賞(2022、2023年)。 |
“パブリックヘルス”とはどのような分野か
“パブリックヘルス”は、人々の健康の維持・増進を探求する学問であり、パブリックヘルスの知見を得ることは、人事労務分野においても重要である。
日本では、パブリックヘルスの訳である「公衆衛生」が社会保障の一部として位置づけられていることから、その範囲が感染症予防や衛生管理などに限定して捉えられがちだ。しかし、実際の研究対象範囲ははるかに広く、医療保健政策、医療保健経営、栄養学、国際保健(グローバルヘルス)、環境保健、労働安全衛生、メンタルヘルス、生物統計・疫学、社会疫学などが含まれる。筆者としては、「公衆衛生」よりもむしろ、健康問題一般を科学する意味合いを含んだ「健康科学」や「社会健康学」という訳語のほうが、本質を捉えているのではないかと考えている。
人事労務に関連する領域を見ても、実は、労働安全衛生やメンタルヘルスに関するエビデンスの多くが、パブリックヘルス分野の調査研究である。「医学がカバーしているのではないか」との声も聞こえてきそうであるが、医学は個々の患者の病理や症例を主な研究対象としており、集団の病気の予防や健康増進を対象とするパブリックヘルスとは異なる学問分野である。職場での安全教育や事故・けがの予防、メンタルヘルス悪化防止への取り組みなどは、むしろパブリックヘルスの守備範囲と捉えるのが適切と言え、実際、アメリカの公衆衛生大学院では、労働安全衛生(Occupational Health)やメンタルヘルスをテーマにした専攻・コースが設けられていることも多い。
人事労務におけるパブリックヘルスの有用性
パブリックヘルスの知見の獲得や専門家との交流は、以下のような観点から、日頃の人事労務の実務にとって有用である。
まず、人事労務に関する意思決定において、エビデンスを根拠に合理的な判断ができる。例えば、直近のイギリスの研究によれば、マインドフルネスの実践、ウェルビーイングを高めるアプリケーションの導入など、個人レベルのウェルビーイングに対する企業の介入策に関して、施策に参加した従業員と参加しなかった従業員を比較した場合、主観的な幸福指標において特段有意な差は見られなかった[注1]。この調査結果が、疫学的観点からどの程度信用性があるかは議論があるものの、このようなサービスを自社の福利厚生等として安易に取り入れることには危うさがあると認識できる。福利厚生等の人事施策を検討する際には、こうしたパブリックヘルスの研究論文に目を配りながら、導入の是非を議論することが重要である。
ハラスメントの研修や職場におけるガイドラインの策定等においても、「どのような場合にハラスメントが起きやすいか」「どのような特性を持つ従業員がハラスメントを行いやすいか」という研究論文を精査することで、より具体的・説得的な対応が可能となる[注2]。
また、人事労務にかかわらず、人的資本経営を含めた企業活動に関連する近時の社会的トレンドへの関心や理解度が高くなる点も重要である。例えば、政府から、「健康づくりのための身体活動・運動ガイド2023」[注3]、「健康づくりのための睡眠ガイド2023」[注4]、「健康に配慮した飲酒ガイドライン」[注5]が立て続けに公表され、一部企業では特定の商品の新規販売を停止するなど波紋が広がっている。このような指針・ガイドラインは、パブリックヘルス分野のエビデンスがベースとなっていることが多く、パブリックヘルスの知見を得ることで、こうした論点や議論に対して、高い感度・解像度で理解できるようになるだろう。
パブリックヘルス人材の活用を
パブリックヘルスの有用性に反し、企業におけるパブリックヘルス人材の活用が進んでいないように思われる。そこで、パブリックヘルス人材の登用・活用や、パブリックヘルスに関するネットワークへの参加を推奨したい。
パブリックヘルス人材の代表的な例は、公衆衛生大学院において、公衆衛生学の修士号(MPH:Master of Public Health)や博士号を取得した人材である。日本の公衆衛生大学院では、医師や看護師等の医療従事者、産業保健師が多く学んでいる。また、上述のとおり、海外の公衆衛生大学院では、労働安全衛生専門のプログラムが組まれていることも珍しくない。筆者が留学したハーバード大学公衆衛生大学院では、多くの産業医や労働安全衛生コンサルタント等の産業保健関連職が学んでいたほか、厚生労働省の医系技官を中心に、公衆衛生大学院に留学する官僚も多かった。近年は、ビジネス界においてもパブリックヘルス人材の登用・活用の有用性が徐々に認識されるようになっているせいか、国内外の公衆衛生大学院で学ぶビジネスパーソンが増えつつあるように思われる。
おわりに
パブリックヘルスは、労働安全衛生をはじめとした職場内における健康上の問題を科学的に理解し、人事労務担当者や経営者に有益な視点を与えるものである。特に、近年は「人的資本経営」が経営戦略上の重要な課題として認識されつつあり、それに伴い必要な人事労務上の施策も多くなっていくものと思われる。また、従業員の健康に対する意識が一層高まり、企業はエビデンスの精査を含めたリテラシーが求められるようになってきている。このような時代において、パブリックヘルスは人事労務にとってますます重要になっていく分野である。
注1 Fleming, William J. 2024. “Employee well-being outcomes from individual-level mental health interventions: Cross-sectional evidence from the United Kingdom.” Industrial Relations Journal, January.
https://doi.org/10.1111/irj.12418
注2 パブリックヘルスの研究者による関連書籍の一例として、津野香奈美『パワハラ上司を科学する』(ちくま新書)がある。
注3 2023年11月27日 厚生労働省 健康づくりのための身体活動基準・指針の改訂に関する検討会「健康づくりのための身体活動・運動ガイド2023(案)」
https://www.mhlw.go.jp/content/10904750/001171393.pdf
注4 2024年2月 厚生労働省 健康づくりのための睡眠指針の改訂に関する検討会「健康づくりのための睡眠ガイド2023」
https://www.mhlw.go.jp/content/001208247.pdf
注5 2024年2月19日 厚生労働省 飲酒ガイドライン作成検討会「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」
https://www.mhlw.go.jp/content/12200000/001211974.pdf