野村 彩 のむら あや
弁護士 和田倉門法律事務所
はじめに
これまでの連載では具体的な事例を交えながら、企業で起きやすいコンプライアンス違反を取り扱ってきた。これらを踏まえて、最終回となる本稿では、これからの企業としてコンプライアンスにどのように向き合っていけばよいかを検討したい。
「法令遵守」とは
本連載ではさまざまな法律が登場した。労働施策総合推進法、男女雇用機会均等法、育児・介護休業法、個人情報保護法、不正競争防止法、独占禁止法、下請法、金融商品取引法(インサイダー取引)、公益通報者保護法、労働基準法、職業安定法、刑法……。これらは「法律」だが、「法令遵守」といったときの「法令」の範囲はもう少し広い。法令には法律だけでなく、法律に付随する「施行令」や「施行規則」と呼ばれるもの、また、議院規則や条例なども含まれる。
「法令遵守」は「コンプライアンス」の日本語訳といわれる。したがって、われわれが「コンプライアンスにしっかり対応しよう」というとき、そのスタートラインは「法令を遵守しよう」ということになる。
しかしながら、法令さえ遵守しておけば十分かというと、そうではない。現代に生きるビジネスパーソンとして、その意味を取り違えてはいけない。“コンプライアンスとは法令だけを遵守するものである” と理解してしまうと、思わぬしっぺ返しを受けることになる。
何を「遵守」するか
●自主規制
上述のとおり、われわれが「遵守」すべき対象は法令だけではない。例えば「自主規制」が挙げられる。業界団体などが「法令に違反しないものの、より高い品質を追求するためにこのような原材料は使用しない」と宣言し、自ら高いハードルを課すということがある。これは、もちろん高品質なものを作るという目的のためだが、加えて顧客や取引先からの信用を獲得する狙いもある。自ら高い規律を課して高みを目指す企業は、そうでない企業に比べて顧客等からの信用を得やすいだろう。一方、「実は自主規制を守っていませんでした」となると、当然その信用は地に落ちる。第1回でも述べたとおり、コンプライアンス違反の最も大きなリスクは、レピュテーションリスク(社会的な信用の毀損)といえる。そして世間は、ある企業がいわゆる「法令」に違反したのか、それとも「自主規制」に違反したのかについてさほど気にしない。厳密には違法でなくとも、「何かルール違反をしたらしい」という悪い印象が先行して、レピュテーションの悪化は避けられないだろう。
●社内ルール
また、規定を含む「社内ルール」も「遵守」しなければ高いリスクを負う。もちろん、社内ルールは法令ではないため、その違反が直接違法となるものではない(ただし就業規則については労働基準法により特殊な効力が付与されており、その違反が違法に直結するため注意が必要である)。
しかしながら、従業員にとって社内ルール違反は懲戒処分につながり得る。また企業としても、社内ルール違反が横行することには大きなリスクがある。それは、「ルールは場合に応じて(自己判断で)守ったり守らなかったりしてよい」という雰囲気、つまりコンプライアンス軽視の企業風土に陥ることだ。不祥事を起こした企業の第三者委員会調査報告書などを幾つかお読みいただければすぐに分かることだが、「第三者委員会が設置されるような重大なコンプライアンス違反がある日突然起きた」というケースは存外少ない。こうした企業では、以前から小さな社内ルール違反が頻繁に起きているものである。「ルールは場合に応じて(自己判断で)守ったり守らなかったりしてよい」という認識が職場のコンプライアンス意識の低下につながり、ある日大きな事件が起きるのだ。
とはいえ、「そうはいっても、こんな細かいルールを守っていたら仕事にならない」「古いルールが残っていて、現状にそぐわない」ということもあるだろう。そのような場合は、ルールを守らないという判断ではなく、“ルール自体を改廃する” という対応を取らなければならない。ルールにも見直しが必要だ。そして、存在している以上は、ルールはルールとして守らなければならない。
●倫理・道徳
以上は明文化されたルールの話だが、現代におけるコンプライアンスを考えるに当たり、明文化されていない、いわゆる「倫理」や「道徳」もまた、ビジネスジャッジに組み込む必要がある。「ルールに違反しているわけではないが、人としてよろしくないのではないか」という観点も、コンプライアンスには取り入れるべきだ。
昨今、「違法ではないかもしれないが炎上した」という事件が後を絶たない。個人情報の取り扱いが不適切であるとして、個人情報保護法違反ではないものの世間の批判を浴びて中止に追い込まれた情報販売ビジネス、明確な差別発言があったわけではないが人種差別の歴史に配慮が足りないとして炎上したミュージックビデオ、人権侵害とまではいえないが男女の固定的な役割分担に固執して非難されたテレビCMなど、厳密な「法令」違反には該当しないが企業の信用が毀損されたという事例は多い。前述のとおりコンプライアンス違反のリスクとしての信用毀損の問題は、必ずしも明確なルール違反の場面に限られない。
むしろ、昨今はビジネスにおいても「人権」に配慮しなければならないという考え方が浸透してきている。
ビジネスと人権
戦後すぐの社会において、人権は国家が保護すべきであると考えられてきた。国家による人権尊重の推進は一定の成果を上げてきたが、すべての国が人権を尊重できているわけではなく、発展途上国に限らず、日本を含めた先進国の中でも、人権の種類によっては立法が追いついていない現状がある。他方で、資本主義の隆盛により、企業による人権侵害の弊害も現れ始めた。企業が自社の利益のみを優先し、倫理観や人権を軽視してきたことで、環境破壊や健康被害など、さまざまな社会問題が生じている。このような中、1998年にILO総会で「労働における基本的原則及び権利に関するILO宣言」が採択され、労働者の基本的な権利を企業が尊重するための基準が定められた。その後、幾つかの企業と人権に関する国際的な枠組みが作られ、集大成として2011年に「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下、指導原則)が国連で支持されることとなった。この指導原則は「人権は国家だけが責任を負う」という考え方とは一線を画し、企業と人権の関係のパラダイムシフトを起こすものといわれている。
わが国でも、指導原則を受けて、2020年に「『ビジネスと人権』に関する行動計画(2020-2025)」が公表されている。この中では企業に対して、事業活動を通じて人権への負の影響の特定、予防・軽減、対処、情報共有を継続的に行う「人権デュー・ディリジェンス」を導入することへの期待が表明されている。
また、人権尊重は自社だけが行えばよいというものではない。「人権が尊重されるのは、そうする余裕がある大企業の従業員だけ」という考え方ではいけない。また前述のとおり、国家による人権尊重のみでは、異なる国家の下にある国民が保護されないという問題がある。そこでわが国では2021年に、サプライチェーン全体で人権尊重の取り組みに努めるよう、「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」が公表されている。
以上のように、企業は法令だけでなく人権の尊重を含めた対応が求められると同時に、配慮すべき範囲もサプライチェーン全体で見ていかなければならないものとされている。もはや「コンプライアンスとは、『自社』の『法令』違反だけを気にすればよいもの」という時代ではないのだ。
とはいえ、われわれ日本人にとって、ビジネスジャッジに人権の観点を盛り込むという考え方は、実はなじみ深いものだ。日本においては、“お天道さまに恥ずかしくない商売をする” 、あるいは「三方よし」に代表されるような「自分だけではなく世間も大切にした商売をすべき」という考え方が昔から存在する。「売り手よし、買い手よし、世間よし」の精神は、コンプライアンスの観点からも、今まさに企業に求められる行動様式なのである。
現場のわれわれができる第一歩とは
内部統制の構築について語るとき、統制環境こそすべての土台とされる。統制環境とは、組織の気風として内部統制の各要素の基盤となるもので、「企業風土」と呼ばれることもある。要するに、職場の雰囲気である。「ルールを守る」「倫理的に行動する」「誠実に仕事をする」という雰囲気だ。このような企業風土がなければ、どんなに精緻な内部統制や不正予防の仕組みを作っても意味はない。コンプライアンスの達成のために最も重要なのは、職場の雰囲気なのである。
では、健全な職場の雰囲気づくりのためには何が必要だろうか。ハラスメントなど論外である。これについては、昨今注目されている「心理的安全性」が大きなヒントとなる。心理的安全性とは、その提唱者とされるエイミー・C・エドモンドソン教授によれば「みんなが気兼ねなく意見を述べることができ、自分らしくいられる文化」のことである。そうした文化を持つ職場では、みんなが「恥ずかしい思いをするんじゃないか、仕返しされるんじゃないかといった不安なしに、懸念や間違いを話すことができる。考えを率直に述べても、恥をかくことも無視されることも非難されることもないと確信している。わからないことがあれば質問できると承知しているし、たいてい同僚を信頼し尊敬している」としている。
コンプライアンス違反が起きない企業などないだろう。いくら内部統制を構築しても、コンプライアンス違反はいつかどこかで必ず起きるものだ。それが今日なのか、10年後なのかという違いだけである。コンプライアンス違反を完全に防ぐことはできない。
だとすれば、起きてしまったとき、いかに小さい芽のうちに、いかに迅速に対応することができるかが、何より重要だ。しかしながら、心理的安全性のない職場では、従業員は声を上げることができない。コンプライアンス違反を認識したときに「ありました」と申し出ることは、リスクを伴うからである。
心理的安全性のある、風通しの良い職場。その逆は、「物が言えない企業風土」だ。不祥事が起きた企業の調査報告書で頻繁に見られる言葉である。風通しの良い職場こそが、内部統制の土台となる統制環境なのだ。
風通しの良い職場を構成するのは、従業員一人ひとりである。ルール違反があったときに「ルール違反をしてはいけない」と言える職場。「誠実な仕事をしよう」と声を上げることができる職場。従業員が互いを尊重し、信頼し、助け合っている職場。そのような職場を人事が率先してつくっていかなければならない。なぜなら、それこそが、コンプライアンスに強い職場なのだから。
※本連載は、【労務行政eラーニング】不正の防止・対応策を学ぶコンプライアンス講座(管理職・リーダー対象)、ケースで基本を学ぶコンプライアンス講座(全従業員対象)と連携しています。連載でコンプライアンスの学び直しに興味を持たれた方は、ぜひeラーニングの利用もご検討ください。
野村 彩 のむら あや 弁護士 和田倉門法律事務所 2001年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。2006年立教大学大学院法務研究科卒業。2007年弁護士登録。鳥飼総合法律事務所入所。2016年、和田倉門法律事務所に参画。著書・論文に「【万一の際、適切に対処したい企業リスク】ハラスメント対応~いざ起きたとき、どう動くか~」(ウィズワークス株式会社)等。 |