2024年07月26日掲載

Point of view - 第257回 松岡佐知―社員のスキル獲得意欲を高める三つの方策

松岡佐知 まつおか さち
株式会社野村総合研究所 コンサルティング事業本部
経営コンサルティング部 プリンシパル

京都大学法学部卒業、London School of Economics and Political Science修士課程修了(MSC in International Employment Relations and Human Resource Management)。雇用システムの理論を中心に学ぶ。専門領域は、人材戦略策定や開示等人的資本経営、雇用・労働政策に関する調査・提言。一般社団法人ピープルアナリティクス & HRテクノロジー協会 上席研究員、人的資本経営の導入と実践ワーキンググループグループリーダー。

日本企業の社員のスキル獲得意欲の低さは雇用システムの構造的問題

 多くの日本企業が、中長期的成長や生産性向上のために事業構造改革を打ち出し、これに伴う人的資本の可視化・強化に取り組んでいる。求める人材確保の手段として、キャリア採用をはじめとする人材の「外部調達」のみで足りるケースはほとんどなく、社員のリスキルやアップスキル、配置転換等の人材の「内部調達」の取り組みが進んでいる。しかし、社員のスキル獲得意欲が思ったように高まらず、効果が得られにくいのが現状である。
 野村総合研究所と早稲田大学の共同研究「日英の人的資本経営とキャリア主体性に関する大企業調査」(2023年、日英各2060人対象)において、大学卒以上・大企業勤務者・ホワイトカラー社員に対象を絞って実施したところ、日本企業の社員はスキル習得に割く時間が短いことが確認された。
 調査結果によると、日本企業の社員において今後獲得したい仕事やポジションのために「現在社外で自主的に学んでいる」割合は18%にとどまった(英国では33%)。1週間当たりのスキル向上・習得のための取り組み(社内研修・社外学習等を問わない)時間を見ると、日本と英国との差はさらに顕著だ。「週に3時間以上」と回答した割合は、英国の51%に対し、日本では23%にとどまる一方、「取り組んでいない」は、英国では11%のみだが、日本では52%に上った[図表1]。役職別に見ても、日本では役職ごとの勉強時間の割合に大きな差はなく、「取り組んでいない」の割合は、部長・次長クラスで42%、課長・マネージャークラスで49%に上っている(一般社員クラスは56%)。日本では一般社員だけでなく、スキルや能力の向上が必然的に求められる管理職層においても、スキル獲得への努力をしない人が多い。
 この調査結果から、日本企業の社員のスキル獲得が進まないのは、個社固有の問題、個々の社員の意識や能力の問題というよりも、むしろ多くの日本企業に共通する、いわゆる「日本型雇用システム」がもたらした構造的問題として見たほうがよい。以下では、この構造的問題を解くための三つの方策を提言する。

[図表1]スキル習得のための学習時間

図表1

資料出所:野村総合研究所、早稲田大学商学学術院「日英の人的資本経営とキャリア主体性に関する大企業調査」(2023年)([図表2]も同じ)

方策1:一方的な会社都合人事をやめ、社員のスキル獲得意欲が報いられる環境をつくる

 日本では少数派といえる、スキル獲得に向けた努力をしている人材はどのような考え方をしているのだろうか。上記調査結果の分析から、「キャリア主体性」が決め手となっていることが分かった。「キャリア主体性」は、人材個人が、①自分のキャリアを自分で決定すること、かつ、②自分をスキル・専門性によって自己定義(「自分は〇〇の専門家である」)すること──の二つの軸により定義される[図表2]
 同調査結果では、キャリアを自ら決定し、かつ企業(「〇〇会社の社員である」)ではなくスキル・専門性で自己定義をする「高キャリア主体性人材」(日本では全体の10%)は、中間層・低キャリア主体性人材と比較して、スキル習得のための学習時間が長いことが分かった。日本企業でも、この「キャリア主体性」を高めることで社員のスキル獲得努力を高めることができる。
 では、社員の「キャリア主体性」を高めるために、人事部には何ができるのか。これも、日本型雇用システムの観点から考えると分かりやすい。
 日本型雇用システムが社員に提示してきたのは、「会社都合の異動・転勤に応じるならば、安定雇用を保障する」という約束だった。これは “雇用安定性とキャリア自己決定性の取引” と言い換えることができる。長年こうした会社都合の人事を繰り返した結果、会社の意向に従い職務内容や勤務地を柔軟に変えられる、キャリア主体性の弱い「ゼネラリスト人材」が多く生み出された。
 この状況で、会社が一方的にキャリア決定権を握ったまま、社員に “自律的な” スキル獲得に向けた努力を求めるのは無理がある。なぜなら、社員が、「現在担当している仕事は自分で選んだものではない/自分では選べない」「今後同じ仕事を長く担当するかどうか分からない」状況に置かれているならば、特定のスキルを獲得しようとする努力を行わないことには一定の合理性があるからだ。社員のスキル獲得意欲を高めるためには、一方的な会社都合人事をやめ、キャリア決定権を社員にも渡すこと、社員が自ら選んだスキル・専門性を獲得することで、望むキャリアを自ら実現できると思える、いわば “社員のスキル獲得意欲が報いられる環境づくり” が必要だ。

[図表2]キャリア主体性の定義(自己決定性とアイデンティティ)

図表2

方策2:人事が主体的に市場を設計・運営し、スキルベースで内部労働市場を再構築する

 会社が握ってきたキャリア決定権を社員に渡せば、組織運営のため、必要な部署に必要な人員を確保するための人材配置の難易度は高まる。社員が、必ずしも会社の意向と合致するキャリア意向を持つとは限らず、「組織側の要請と個人意向の合致の必要性」という問題が生まれるためだ。
 この問題に対応するためには、「会社として方向性を示すので、これに応じてスキル獲得努力を主体的に行ってほしい」「スキル獲得・発揮のため挑戦し努力していただけるならば、求める機会を与える」というように、会社と社員の間の約束を、これまでの “雇用安定性とキャリア自己決定性の取引” から、“成長機会とスキルの取引” に変えることが必要だ[図表3]。そして、この観点からは、会社と社員は互いに変化することが求められる。
 会社側は、求める人材像を「従順で優秀なゼネラリスト」から、「高キャリア主体性人材」に変える。併せて、「会社が個人のキャリアをすべてお膳立てする」というスタンスの中央集権的な人材配置をやめ、「会社は機会を付与し、社員がスキル獲得・発揮のため自ら挑戦し努力することを通じて、人を育てる」という発想への転換が必要だ。
 社員側には、「自らの意思決定により仕事やポジションを獲得しなければ上に行けない」「自分のキャリアのハンドルは自分で握る」という意識を醸成することが必要だ。方策1で “社員のスキル獲得意欲が報いられる環境づくり” が必要と述べたが、これはただ社員の努力に報いるという話ではない。重要なポイントは、スキル獲得・発揮のため挑戦し努力しなければ処遇が下がるという「逆インセンティブ」も同時に必要だということだ。日本企業では、キャリア研修、セルフ・キャリアドック等の社員の “背中を押す” 施策は充実してきているが、これだけではスキル獲得のインセンティブが弱い。人事部が主体的に市場を設計し運営することを通じて、内部労働市場を再構築し、社内にスキルベースで市場原理を働かせる、インセンティブ構造の大きな転換が必要だ。
 内部労働市場の再構築には、丁寧なつくり込みが求められる。ただ、これまでのように人事部で把握している人材情報に依存し、人の記憶と感覚のみに頼っていては、情報不足と、業務工数の多さが壁となってしまい、人材配置のあり方は変えられない。そこで、生成AIを含めたテクノロジー活用が不可欠となる。人事データを活用した人材の可視化、生成AIを活用した仕事・人材マッチングの取り組みを行うことで、透明性・納得性の高い内部労働市場運営が可能になっていく。

[図表3]スキル獲得意欲を高めるためにありたい会社と人材の関係

図表3

方策3:社員がスキル獲得努力をしたくなるキャリアパスを個別に提示する

 日本型雇用システムでは、伝統的に、社員間に明確な差をつけず、長い時間をかけて同じレールの上で出世競争をさせることで、優秀なゼネラリストをできるだけ多く育てるという特徴があった。しかし、会社から社員にキャリア決定権を引き渡せば、このレールの上に乗りたくないと考える社員が増える。従来のように特定の専門性を持たないゼネラリストとなることや、企業固有のスキルに基づくキャリアを歩むことは、時代の変化を成長や活躍の機会に変えることのできるキャリアを積み上げるため自ら仕事やポジションを獲得し続けていく上でのリスクとなることから、従来型のキャリア選択を望まないケースが多くなるということだ。“Z世代” といったキーワードとともに、世代間の意識の変化として語られがちな問題だが、これも日本型雇用システムがもたらす構造的問題であると考えると分かりやすい。
 スキルベースの仕事・人材マッチングを推し進めると、社員側は目の前にあるスキル・専門性に飛びつきやすくなり、経営人材として必要な経験の “横幅” を広げて組織マネジメント力を高める経験を積むことや、会社全体を活躍のステージとしてフル活用するための社内政治・社内人脈形成といったプロセスに時間をかけることを避けるようになる。会社側はより分かりやすく、意図的にキャリアパスの魅力付けを行っていくことが必要だ。具体的には “魅力の言語化” を通じ、例えば求める人材像を明示する、その人材像を目指すことで獲得できる汎用(はんよう)的スキル・能力や人材としての市場価値を示す、優秀人材は早期に選抜しその旨を本人にも伝える、異動配置のたびにその理由を本人に説明する──といったケアを、継続的かつ個別に行っていくことが挙げられる。
 加えて、魅力的なキャリアパス(レール)は1本だけではなく、個人の選択に応じ複数存在することを示すことも必要だ。社員のキャリアゴールを多様化し、個々人に合ったキャリアを尊重するための人事データ活用や組織文化醸成も求められよう。