2024年08月09日掲載

人的資本経営時代におけるトータルリワード戦略 - 第4回 事例紹介

若山秋雄 わかやま あきお
三菱UFJ信託銀行株式会社
トータルリワード戦略コンサルティング部 人事戦略室 プリンシパル

徳永祥三 とくなが しょうぞう
三菱UFJ信託銀行株式会社
トータルリワード戦略コンサルティング部 部長兼フェロー

1.はじめに

 2023年10月に人的資本経営コンソーシアムより「人的資本経営コンソーシアム 好事例集」(以下、好事例集)が公表された。この中には、46社の人的資本開示の事例が掲載されており、その一つひとつが実践に基づいた実に示唆に富んだ事例である。
 トータルリワード戦略のフレームワーク[図表1]は、人的資本経営の構えの組み立てや点検する上で効果的なフレームワークであるため、人的資本経営の「実践」と「開示」の双方の観点において活用していくことも有効なプロセスとなり得ると考えている。
 企業活動は非常に複雑であり、全体を的確に捉えることは容易ではない。また、開示される情報は当然のことながら一部であり、それを見ただけでは各社の人的資本経営の細部まで理解できるわけではない。
 本稿では、好事例集に掲載されている事例を踏まえ、筆者が実際コンサルティングの現場で携わった企業の課題なども参考にして、架空の成熟した製造業「A社」の事例を設定し、金銭報酬・非金銭報酬の働きを深掘りしていきたい。

※本稿における意見に関わる部分および有り得るべき誤りは、筆者個人に帰属するものであり、所属する組織のものではないことを申し添える。

[図表1]トータルリワード戦略のフレームワーク

図表1

資料出所:本連載「第1回 トータルリワードの全体像」の[図表3]

2.成熟した製造業A社の事例

[1]課題感
 製造業「A社」は創業60年の伝統を有するが、その半分は「失われた30年」に含まれる。この間、A社の企業規模は、ほぼ横ばいであった。
 バブル崩壊、リーマンショックなどの影響で業績に波はあったが、財務の健全性は維持し、従業員の削減に踏み切ることもなかった。人員構成は高年齢化し、ベテラン従業員の割合が多くなっている。
 現在、A社の経営陣は、かつてない時代に入ったと強い危機感を抱いている。同業他社を含め多くの日本企業が、本気で変わり始めているのがひしひしと感じられるのだ。後れを取れば、企業の未来はないかもしれない。
 従業員は新卒プロパーが大半で、どの世代もポテンシャルのある優秀な人材を採用してきた。従業員は皆、真面目だ。そのため年功序列型の人事制度を堅持し、一人ひとりの序列に留意した人事管理を行うとともに、組織の新陳代謝を進めるため「役職定年制」を導入し、順次バトンタッチさせている。それでも中堅層は「順番待ち人事」にしびれを切らし、優秀者から転職していく。最近は入社間もない元気な若手が、それを見てマネをする始末だ。さらには、役職定年後、シニア世代は気が抜けたようにおとなしくなってしまう。本当はもっとやれるはずなのに。
 A社の有価証券報告書を見る限り、平均年収は業界トップクラスだが、年功賃金のため貢献や期待に見合った配分にはなっておらず、採用競争が激しいDX人材などは、年収が折り合わず採用できていない。プロパーの精鋭を選抜して全社的なDXのプロジェクトを立ち上げたものの、働き方改革で制限されたワークロード(仕事量や作業負荷)は本務の仕事で埋まってしまい、プロジェクトに十分な時間を割くこともできない。加えて、年功序列で出来上がった組織で仕事のやり方を変えることへの抵抗が強いため改善案の実装が進まず、メンバーの士気は一向に上がらなかった。

[2]トータルリワード戦略の実装による改革
(1)Inspired「やる気の促進」の非金銭報酬で、しっかり改革に踏み出す
 経営陣は、企業の存在意義から問い直すこととした。創業の理念は尊重しつつも、これからの時代に適応するために企業の社会的な存在価値や意義を表す「パーパス」を新たに掲げ、それを実現するための戦略も描いた。施策の選定のプロセスでは、トータルリワード戦略を活用し、従業員のやる気を促す施策について検討を進めた。その結果、最適な組織を構築するために組織図は5階層から3階層にフラット化し、部長ポストも課長ポストも大幅に絞り込むこととした。
 一方、従来の年功序列の「専門職制度」を廃止して、責任権限や予算も与えて組織の一機能として明確に位置づけた「専門役職」を設置した。併せて「役職定年制」を廃止し、従来の役職定年者を含め、最もふさわしい人材を選んで新組織の専門役職に登用した。
 これらの施策によって、A社は戦略を実践するのに最適な組織となり、管理職ポストも専門役職ポストも、それぞれ適する人材が登用された。登用された個人は企業の期待をひしひしと感じ、皆が使命感を燃やすこととなった。

[図表2]Inspired「やる気の促進」の非金銭報酬

図表2

資料出所:本連載「第3回 非金銭報酬」の[図表6]

 A社はまず、新しく掲げたパーパスを起点として新組織を描き、適所適材の人材配置を実施した。これはトータルリワード戦略の「戦略的人事配置」[図表2]に当たる。
 従来の年功序列型の人材配置は「順番待ち人事」だったため、新たに管理職ポストや専門役職ポストに登用された個人は「成長機会」という報酬(リワード)を企業からの大きな期待として受け止め、自身が何をなすべきか、といったアクションをとことん考え、最高のパフォーマンスを発揮して、これに報いようとする。その結果、組織全体としても目標達成に向けた「チームビルディング」が強化される。
 また、既に役職定年となったものの、新たに専門役職に登用された個人は、「評価」という報酬(リワード)も受け取り、「気の抜けたような」スタンスから奮起して気持ちを切り替えていく。
 年功序列を脱したことで、若くして管理職ポストに登用された個人は、新たな「成長機会」と「評価」という報酬(リワード)も受け取り、これまでとのギャップを前向きに受け止め、やる気が引き出される。
 さらに、一新された組織で、一人ひとりが目標達成等に向けて結束を強める「チームビルディング」の報酬(リワード)が生じる。
 これらはいずれもInspired「やる気の促進」の非金銭報酬である[図表2]。「戦略的人事配置」という報酬(リワード)を起点に、「成長機会」「評価」「チームビルディング」といった報酬(リワード)が発生して皆の心に灯がともり、改革の原動力となった。
 A社は、過去の成功体験から年功序列型人事にとどまり、改革にしっかりと踏み出すことができずにいた。経営陣は、パーパスから戦略実践のための新組織をまず描き、Inspired「やる気の促進」の非金銭報酬によって改革を始動させたのだ。

(2)Motivated「やる気の促進」の金銭報酬で、改革を定着させる
 上述のパーパス設定、新組織、適所適材型の登用といった改革を進めた上で、A社は人事制度の体系をジョブ型に転換した。適所適材型の人材登用によって抜てきされた中堅優秀層に対し、ポジションにふさわしい「給与」や「賞与」といった主要な金銭報酬を与えることができるようになった[図表3]

[図表3]Motivated「やる気の促進」の金銭報酬

図表3

資料出所:本連載「第2回 金銭報酬」の[図表5]

 業界トップクラスであるにもかかわらず、年功序列型の配分となっていた給与や賞与を、新組織と適所適材型の登用([図表2]のInspired「やる気の促進」の非金銭報酬)を行った上で、ジョブ型人事制度に即した組織への貢献や期待に見合った配分に転換した。これらはMotivated「やる気の促進」の金銭報酬に当たる[図表3]
 仮に、Inspired「やる気の促進」の非金銭報酬よりも、Motivated「やる気の促進」の金銭報酬に当たるジョブ型の金銭報酬を先に導入したとしたら改革はうまく進まなかっただろう。組織や人材配置が年功序列のままジョブ型の金銭報酬に転換することになるからだ。Inspired「やる気の促進」の非金銭報酬によって改革を始動した上で、Motivated「やる気の促進」の金銭報酬で、改革を定着させるのが順序として望ましい。このプロセスは、いわゆる「グッド・サイクル」(ダニエル・キム『成功の循環モデル』)に重なる。なお、Inspired「やる気の促進」の非金銭報酬のみを実施して改革を始動しても、Motivated「やる気の促進」の金銭報酬で定着を図らなければ、一度ついた灯もやがて消えてしまうだろう。
 これらを見ていた若手の目も輝き出した。若手等の担当職には、「資格手当」の充実も図られた。
 さらに、新たに全従業員を対象として、中期経営計画の評価等に応じ毎年株式を付与する「株式報酬」を導入した。「企業の成長と従業員が豊かになることの両立」を目的としたものだ。株式報酬は、中長期的なインセンティブとなる報酬(リワード)である。市場価値に連動する株式報酬は、ジョブ型の金銭報酬の背景にA社の企業価値向上という狙いがあり、自身がその一端を担っていることも意識させる。株式報酬の対象となる従業員はIR(Investor Relations)にも関心を持つようになり、人的資本に関する開示にも注意を払うようになるだろう。株式報酬の導入により、経営参画意欲や自社株価に対する関心が高まったことに加え、従業員エンゲージメントサーベイの参加率も向上することとなった。

(3)Comfortable「安心感の醸成」の非金銭報酬で、改革を包み込む
 A社は、育児・介護などの就業制約のある従業員や、パラレルキャリアを志向する従業員をはじめ、さまざまな働き方のニーズに応えるため、リモートワークや労働時間制度の選択肢を充実させた。この効果として、女性の定着率が上がり、一部のベテランやシニア層が活性化した。
 また、柔軟な働き方が可能となったためワークロードに余裕ができ、DXプロジェクトに積極的に協力する従業員が少しずつ現れるようになった。プロジェクトは徐々にではあるが、着実に成果を上げるようになった。

[図表4]Comfortable「安心感の醸成」の非金銭報酬

図表4

資料出所:本連載「第3回 非金銭報酬」の[図表7]

 リモートワークや労働時間制度の選択肢の充実は「職場環境」という報酬(リワード)に当たる。多様な働き方が可能になると、さまざまな就業制約が生じても仕事を続けられる見通しが立ち、安心感につながる。
 多様な働き方の選択肢が広がると、就業制約があった従業員に働き続けてほしい、活躍してほしいと「承認」という報酬(リワード)を与えたことになる。こうした企業姿勢は、従業員にとって「DE&I」という報酬(リワード)ともなる。また、お互いの価値観を尊重し合い相互理解が進むことから、良好な人間関係が構築され、コミュニケーションが活発になり、ミスを共有化するなど業務改善も図られるといったチームワークがよくなるチームビルディングにつながっていく。
 これらはComfortable「安心感の醸成」の非金銭報酬に当たる[図表4]。厳しい改革の中にあっても、働きやすい環境を用意する取り組みには、改革に関わる皆を穏やかに包み込む働きがある。

(4)Secure「安心感の醸成」の金銭報酬で、長期貢献の見通しをつける
 A社は、ジョブ型の人事制度に転換しても日本の労働法制や雇用慣行を尊重し、長期雇用を前提とする人事方針は堅持した。
 また、現場の担当でも安心して勤務を継続できるよう、「家族手当」「住宅手当」や、リタイア後の人生を支える「退職給付」や「資産形成」につき、トータルリワードのバランスを考慮して再構築した。
 これらはSecure「安心感の醸成」の金銭報酬に当たる[図表5]

[図表5]Secure「安心感の醸成」の金銭報酬

図表5

資料出所:本連載「第2回 金銭報酬」の[図表7]

 長期雇用の人事方針に基づき、担当職クラスに対する「(家族手当・住宅手当といった)属人的手当」の導入やインフレ環境においても実質価値が目減りしない「退職給付」の仕組みの導入など金銭報酬を再構築し、長期就業をしても給与の面で見通しが立てられるよう配慮がなされている。
 また「福利厚生」として、自宅をより仕事に適する環境にアップデートする支援やリスキリング支援によって、仕事をしていく上で障害となるものを取り除き、効率化につながる施策を取り入れることで従業員の不安を軽減するとともに、生産性向上の効果をもたらす。
 A社は、年功序列型人事は脱しようとしているが、長期雇用は維持しようとしている。いわば「終身雇用から終身貢献」へ転換しようとしているのだ。
 Secure「安心感の醸成」の金銭報酬は、A社の従業員が長期に在籍し続けてもよく、相応の金銭報酬も得ることができるだろうという長期貢献の見通しを支えている。

3.トータルリワード戦略の「グッド・サイクル」

 一連の改革の過程で、一部の従業員は自らA社を去ったが、ジョブ型の条件提示が可能となったこともあり、キャリア採用でその穴は埋めることができており、改革の前後で従業員数はほぼ変わっていない。また、金銭報酬の総額は株式報酬の導入分を除いても増加した。それでも既存事業を従前同様の規模で効率よく遂行し、DXプロジェクトの進展で生産性が改善しつつあることに加え、全く手つかずであった新規事業開発に「適所適材」で5%の人員を投入できるまでになった。A社が経営の健全性を保ちながら確固たる成長性を獲得するまで、もう一歩だ。
 A社では改革が成功裏に進み、人的資本経営が徐々に実現しつつある。その成功要因の一つは、トータルリワード戦略をグッド・サイクルで実践したことが挙げられる[図表6]

[図表6]グッド・サイクル

図表6

資料出所:ダニエル・キム『成功の循環モデル』より筆者作成

①関係の質
 A社は、組織も人事処遇も年功序列に基づく閉塞(へいそく)感のある状態を脱するため、まずパーパスを定め、あるべき組織づくりから開始した。新しい組織に適所適材で登用した従業員は士気を高め、この従業員たちを中心に新しい組織と人の関係が築かれた。

②思考の質
 新しい組織にはジョブ型人事制度を導入し、パーパスに基づき戦略を実践するために最適な組織や個人の目標を設定することを求めた。適所適材で配置された従業員は担当職務に対する知見やノウハウを持ち、士気も高く知恵を絞って質の高い目標や実行計画を作成した。

③行動の質
 実行計画に基づき目標の達成に向けた取り組みの中で、ジョブ型の金銭報酬や、株式報酬等による意欲・行動の方向付けを進めた。担当職クラスも安定して仕事に取り組むことができる環境となっており、企業全体として高い意識で取り組むことができた。

④結果の質
 明確な目的・目標に向かって、A社として最善の組織と人材配置で実行した結果であったため、全員が正しく受け止め、次に活かすことができる。このような「結果の質」があるからこそ、最初の「関係の質」をさらに高め好循環が続いていく。

4.おわりに

 A社の事例は、好事例集のいくつかの企業をヒントに、筆者の経験や考えに基づき肉付けをしたものだ。
 好事例集から参考にしたのは、いずれも現状抱く何らかの課題感を背景に読み取ることができ、将来のあるべき姿に向けて大きく変えていこうとしているストーリーを感じた部分だ。ストーリーには、その企業の意志を伝える力があると考える。
 新たにパーパスを掲げることから始めている事例や、適所適材のジョブ型人事配置を進めている事例、多様な人材が働きやすい環境を整備して活躍推進につなげていこうとする事例、リスキリング等の人材育成に関する事例などは複数の企業が取り組んでいる。
 筆者の印象に残ったのは、組織の階層をフラット化して管理職の管理スパンを広げようとしている事例と、本稿では「終身雇用から終身貢献へ」とやや表現を変えた、長期雇用のポリシーに関する事例だ。いずれも筆者の経験や考えと響き合うものを感じ、事例に取り入れたものだ。
 「報酬(リワード)」という切り口の率直さは、課題の本質を捉えるのに適している。一つひとつのトータルリワードの施策で、結局企業は何を従業員への報酬としているのだろうか。明確な答えが出てこないときは、何かおかしいのではないかと疑ってみたほうがよい。
 A社のストーリーが、人的資本経営を実現していく上での参考になれば幸いである。

プロフィール写真 若山秋雄 わかやま あきお
三菱UFJ信託銀行株式会社
トータルリワード戦略コンサルティング部 人事戦略室 プリンシパル

事業会社2社の人事企画等勤務を経て、三菱UFJリサーチ&コンサルティングで21年間、大企業からベンチャー企業まで多くの組織人事コンサルティングを担当。その後ベンチャー企業に転じ、人事・企画部門長、およびM&Aの人事デューデリジェンス責任者として株式上場に貢献後、現職。「人的資本経営の実現」を社会課題と捉えコンサルティングの他、情報発信、サービス開発等に取り組んでいる。「三菱UFJ年金情報」に「パーパス経営的人事考」を2022年より連載。経営行動科学学会、人材育成学会、産業・組織心理学会、日本産業ストレス学会 各会員。
プロフィール写真 徳永祥三 とくなが しょうぞう
三菱UFJ信託銀行株式会社
トータルリワード戦略コンサルティング部 部長兼フェロー
公益社団法人日本年金数理人会 副理事長
日本アクチュアリー会正会員 日本証券アナリスト協会認定アナリスト

1994年三菱信託銀行株式会社(現三菱UFJ信託銀行株式会社)入社後、企業年金に関するコンサルティング・営業・事務や三菱UFJフィナンシャル・グループおよび三菱UFJ信託銀行にて人事企画・運用、報酬委員会運営等に従事。2021年に業界初となる「人事制度と退職給付制度を融合したコンサルティング業務」を立ち上げ、現在は人事戦略、定年延長、女性活躍、ジョブ型人事制度、DC・ハイブリッド年金、資産形成等をテーマとした人的資本経営に関する企業向けコンサルティング部署の責任者を務める。