2024年08月23日掲載

Point of view - 第259回 舘野聡子 ― 人事労務担当者の陰性感情

舘野聡子 たての さとこ
株式会社イソシア代表取締役 オフィスブリーゼ代表
特定社会保険労務士 公認心理師

筑波大学大学院人間総合科学研究科生涯発達専攻修了。カウンセリング修士。ハラスメントとメンタルヘルス問題の対応に20年以上の経験を有する。ハラスメント相談窓口担当者研修等、社会保険労務士としての労働法領域および組織の立場からの対応と、公認心理師としての個人の心理領域からの支援の双方によるアプローチを得意とする。

人事労務担当者が抱く陰性感情

 筆者は仕事上、人事労務担当者と職場の労務問題の解決場面で関わることが日常だが、時折担当者が抱いている労働者への陰性感情に触れることがある。陰性感情とは、相手に対して抱く否定的な感情のことである。その種類はさまざまだが、怒り、不安、恐怖、嫌悪や不快などが該当する。
 例えば、ささいなことで繰り返し問い合わせてくる労働者を「面倒くさい」と感じたり、産業医面談のお膳立てをしたのに、当日になって当人が面談を拒否してきて「勝手にしろ!」と毒づいてしまったり、勤務態度が悪い労働者に対して「自分から退職してくれないかな」と願ったり――。このような否定的な感情を抱いたことがない担当者は少ないのではないだろうか。
 筆者が人事労務担当者の陰性感情に触れるのは、主に問題となっている状況について、社会保険労務士あるいは公認心理師として相談を受け、問題解決のためにやりとりをしている場面である。担当者に対して「お疲れのようですね」「対応、大変ですよね」など、ねぎらう言葉をかけたことをきっかけに、「実は誰にも言えなかったのですが、正直こんなふうに思ってしまうんですよ」とその心境を語ってくれるのである。立場上、業務内容から誰彼と軽々しく感情を共有できるわけでなく、陰性感情を抱くこと自体を甘えや自らの未熟さと結び付けて認識している場合もある。職場ではそのような感情は語られず、 “なかったこと” になっているケースが多いのだろうと想像する。

陰性感情が人事労務担当者とその業務に与える影響

 陰性感情については、これまで主に精神科領域で働く医師や看護師における問題として、そうした感情を持つ個人へのアプローチや、治療プロセスに与える影響などが研究されてきた。
 精神科の臨床現場では、患者からの暴力・暴言といった受け入れ難い言動に対して陰性感情を抱くことは少なくなく、それが医療者に無力感や徒労感、罪悪感を抱かせる[注1]。医療者が患者に対して陰性感情を持つと、「患者との関わりを極力避けようとしてケアの質が低下する」「感情が乱されることにより適切な判断ができなくなる/結論を急いでしまう」「医療者の陰性感情が患者に伝わってしまい、両者の間で感情的なトラブルが生じる」などの問題が起きることが指摘されている[注2]
 人事労務の現場においても、担当者はメンタルヘルス不調者への対応、ハラスメント問題の調査や判断、調査後の問題解決、職場のルールを逸脱する行動に対する介入、その他苦情の受け付けなど、労働者の感情に対応する業務に携わるのが通常である。とりわけ休職期間満了による自動退職、懲戒処分といった労働者のキャリアや生活に直接関わる案件では、労働者が自分の要求を通すために強く主張することや、思いどおりにならない(いら)立ちを担当者にぶつけてくることもあり、陰性感情が生じる場面が多いと考えられる。実際に、「ハラスメント相談に対応していた担当者が当事者からの暴言を受けメンタルヘルス不調になった」「人間関係のトラブルに対応しているうちに、当事者の振る舞いへの嫌悪感と対応に係る徒労感から退職を考えるようになった」などと聞くこともある。
 このように陰性感情が人事労務担当者の心身の健康に及ぼす影響も気掛かりではあるが、併せてそうしたトラブルへの対応に及ぼす影響も危惧(きぐ)される。陰性感情を抱く相手とはなるべく関わり合いたくないと思うことから、本来取るべきコミュニケーションの回数が減って内容が薄くなる、タイミングが遅くなる、判断が排除の方向に働く――といった影響が生じないだろうか。もちろん多くの職場で感情を排した公平公正な対応が行われていることと推測する。だが、時折ではあるが、「なぜこの人は会社が通常与えるべき支援的な関わりを得ていないのだろうか」と感じる事例に出合うことがある。その背景に、対応する側の陰性感情の影響があるとすれば、後々のトラブルの火種になるのではないだろうか。

自らの陰性感情に気づいて認める

 ここでお伝えしたいのは、 “陰性感情を抱いたとしても、それ自体決して悪いことではない” ということだ。「抱いてはいけない感情がある」わけではない。問題なのは「その感情の影響を受けて自らが望まない対応をしてしまう」ことである。それを回避するためには、自らの陰性感情に気づいて認めることが大切だ。陰性感情自体、気持ちの良いものではなく、それを抱く自分に否定的な感情を持つこともあるため、気づいても自ら否定したり、気づかないふりをしたりしてしまう。
 ぜひ業務に携わる中で怒りや不安、恐怖などの陰性感情を抱いたときは、「私は怒っている」「悲しい気持ちになってしまった」「怖いと感じている」と言葉にしてみてほしい。そして陰性感情を持つこと自体を否定せずに、自分の中に陰性感情という “否定的な感情” があることを受け止め、また、「そのような気持ちになるのは決して悪いことではない、むしろ当たり前なんだ」と認めてあげてほしい。守秘義務が守られる関係で、自分の気持ちを批判せずに聞いてくれる存在をつくっておくのもよいだろう。「自分の中に陰性感情がある」と認めることで、それに影響されない行動を選択できる。
 本稿では職場における陰性感情とそれへの対処についてお伝えしたが、日々の業務の中で苦しい気持ちが生じたときの参考にしていただければ幸いである。

※注1 松本陽子、惠良友彦、木村幸生「精神科看護師の患者に対する陰性感情と職場の働きやすさおよびレジリエンスとの関連」『日本精神保健看護学会誌』(2023年32巻1号、1~9ページ)

※注2 加藤 温『診察室の陰性感情』金芳堂(2021年)