2024年09月12日掲載

HRイブニングセッション講演録 - 人的資本経営時代に問われる人材投資の在り方(前編)──地道な改革が企業の再建を導く

<編集部より>
近年、投資家からの要望や人的資本に関する情報開示の義務化などを背景に、「人的資本経営」への関心が一層高まっています。その重要性は理解していても、実際に何から始めればいいのか、どうしたら効果が出るのか、悩む企業は少なくないのではないでしょうか。

当所が主催する「HRイブニングセッション」では、各界の第一人者を講師として招き、企業の担当者が “次の一手” を考える上でのヒントを提供しています。2024年7月24日に開催した講演では、守島基博氏を講師としてお招きし、なぜ今人材に投資する必要があるのか、そして今どのような人事変革が求められるのかを解説していただきました。本特集では、その講演内容を要約して前編・後編の2回で紹介します。

◆本講演の見逃し配信(有料)も実施しております。ぜひご利用ください。
申込期限:2024年9月25日(水)17:00 まで
https://peatix.com/event/4117086

Dr.Morishima

<講師プロフィール>

守島基博 もりしま もとひろ
学習院大学 経済学部経営学科 教授
一橋大学 名誉教授

1980年慶應義塾大学文学部社会学専攻卒業。1986年米国イリノイ大学産業労使関係研究所博士課程修了。人的資源管理論でPh.D.を取得。カナダ国サイモン・フレーザー大学経営学部助教授。1990年慶應義塾大学総合政策学部助教授、1998年同大大学院経営管理研究科助教授・教授。2001年一橋大学大学院商学研究科教授を経て、2017年より学習院大学経済学部経営学科教授。2020年より一橋大学名誉教授。著書に『人材投資のジレンマ』(共著、日本経済新聞出版、2023年)、『全員戦力化 戦略人材不足と組織力開発』(日本経済新聞出版、2021年)、『人材マネジメント入門』(日本経済新聞出版、2004年)などがある。

【目次】
1.「人的資本経営」という議論
2.人材マネジメントを取り巻く変化
3.必要な人材戦略は「全員戦力化」
4.全員戦力化の実現に必要な人事改革
5.おわりに

1.「人的資本経営」という議論

[1]なぜ人的資本経営が求められるのか
 人的資本経営とは、経済産業省によれば、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営の在り方であると定義されています。企業は人材を「コスト」や「資源」ではなく、投資の対象としてその価値を最大限引き出すことが求められます。
 近年の人的資本経営の議論の中で重要な点は、このような経営スタイルを実践していく必要性に資金を提供する株主が気づき、企業の中における人材マネジメント、人的資本のマネジメントの在り方について関心を持つようになったということです。
 株主にとって、これまで人材マネジメントは、企業内の事柄であり、あまり気にしてきませんでした。しかし、人的資本経営の流れを受けて、株主が人材マネジメントについて意見するようになってきた、もしくは関心を持ってきちんと人材マネジメントに取り組んでいない企業に対しては、投資の対象から外す、といったことが起きてきています。

[2]人事面から見た人的資本経営
 人事の方たちに対して私がよくお伝えしているのは、人的資本投資というのは、人事施策を講じるとか、育成投資額を大きくするとか、そのような問題で終わらせてはいけないということです。
 適切な人材が適切に経営戦略の中に位置づけられていて、その実現に貢献する仕事をしているかどうか、そこが問われるようになってきています[図表1]
 平たく言ってしまえば、戦略人事です。経営戦略と人材マネジメントをリンクさせ、その中で人材(人的資本)の価値を最大限発揮できるように活用していく。それが人事の面から見た人的資本経営といえるでしょう。

[図表1]人的資本経営の議論で重要なポイント

図表1

[3]人的資本の情報開示
 また、こうした人的資本に着目した経営をしているかどうかという点で、最近、人的資本の開示が重要になってきています。例えば、女性管理職比率を開示することが法的に求められますが、女性の管理職比率を高くすることが女性の人材価値の発揮に結びついていかないと、結果としては単なる数字の開示になってしまって、あまり意味のないものになっています。
 株主が本当に関心を持っているのは、女性の管理職比率の数値ではなくて、女性がその企業の中できちんと活用されていて、戦略の実現に貢献しているかというところです。それが、人的資本経営を実践していくことにほかならないといえるでしょう。

2.人材マネジメントを取り巻く変化

 人的資本経営の議論が進む中で、人材マネジメントや人事管理を取り巻く環境にさまざまな変化が起こっています[図表2]

[図表2]人材マネジメントを取り巻く変化

図表2

[1]経営戦略の変化
 例えば、DXとよく言われますが、企業がIT、AIなどの技術を経営の中に取り入れて、ビジネスモデルを変革し、より新たな販売戦略を考えていく動きがあります。また、従来とは全く異なる分野で戦っていく、事業ドメインの再構築もポイントの一つです。例えば、現在、日立製作所が事業ドメインの中心に置いているものは昔と全く違います。昔はいわゆる家電、アプライアンスなどが重要な事業ドメインだったのですが、今は、いわゆる社会インフラの提供に大きく(かじ)を切っています。
 経営戦略が変化すると、それを実現するために新たな人材(人的資本)と、その活用が重要になってきます。企業が仮にそういった人材を確保できない、活用できないとなると、やや言い過ぎかもしれませんが、それは人材マネジメントの失敗であろうと私は思っています。経営戦略が変化するときは、新たな人材、いわば人的資本が必要になります。したがって、新たな戦略実現に必要な人材を確保して活用できるように、人材マネジメントの改革が必要になってくるのです。

[2]働く人の変化
(1)働き手の減少
 また、人事の方の多くが感じていることだと思いますが、働く人たちを取り巻く状況が大きく変化しています。
 一番大きい変化は、労働力人口の減少です。生産年齢人口という言葉をテクニカルには使いますが、15~64歳の労働者が減ってきています。また、人が量的に減っていることに関連して、技術革新による人と組織のミスマッチが増大している、ということもあります。三菱総合研究所の試算では、2030年には、事務系の人材が過剰になる一方で、いわゆるITなどの専門技術を持つ人材は170万人不足するとされています[図表3]。これらはいずれも量の変化です。

[図表3]日本の労働需給バランス(2015年起点)

図表3

注:破線は、コロナ危機前の技術普及シナリオに基づく人材需給バランス。
実線は、コロナ危機を受けて一部のシナリオが前倒し実現されるインパクトを反映したもの。

資料出所:三菱総合研究所「人的資本を高めるための人材戦略」(マンスリーレビュー2021年6月号)
https://www.mri.co.jp/knowledge/mreview/202106.html

(2)変化し、多様化する価値観
 それに対して、もう一つ重要なのは、働く人たちの価値観や考え方、何を人生の中で大切にしたいかという部分が変化していることです。これは質的な側面だといえるでしょう。例えば、ワーク・ライフ・バランスを大事にする価値観や、キャリアを自分でつくっていきたいというキャリア自律への意識の高まりがあります。
 [図表4]は、仕事選びで何を重視しているのか、20代前半の正社員を対象に調査した結果の推移です。まず、絶対値では、一番右側の、いわゆるワーク・ライフ・バランスを重視している人たちが多い状況が見て取れます。しかし、面白いことに変化率を見てみると、年を追うごとに割合が減っています。それに対して、「色々な知識やスキルが得られること」「資格や免許の取得に繋がること」「社会に貢献できること」など、いわゆる仕事自体の面白さを重視する人たちが、少しずつですが増えています。現在でもワーク・ライフ・バランスを求める人自体は多いのですが、それでも仕事の面白さ、成長実感などで企業を選ぶ傾向が強くなっているのです。
 今は数的にマイノリティーですが、10年後にはそういう人たちが確実にマジョリティーになります。働いている人の価値観が変化すると、やはり人材マネジメント、人的資本経営のありようは変わらないといけません。

[図表4]仕事選びで重視している項目

図表4

注:各調査年における20代前半の正社員のデータを集計したもの。

資料出所:株式会社パーソル総合研究所「働く10,000人の就業・成長定点調査」(2022年)

(3)企業と人の関係の対等化
 労働市場の逼迫(ひっぱく)により、働く人の労働市場での交渉力が高まり、企業と人の関係が対等化していることも変化の一つだと思っています。これからは企業が人を選ぶ時代ではなくて、企業が人に選ばれる時代になってきます。その時に、どういう人材マネジメントをやっていくべきなのかを今から考えておかないと、結果として人材が確保できない状態となり、企業が(つぶ)れてしまう、という事態にもなりかねません。今までは企業主導の人材マネジメントを推進してきた企業が多かったと言えますが、これからは働く人たちがどういうことを考え、何を望んでいるのかを把握し、それに対応していかないと、働く人から選ばれない企業になってしまう可能性があるということを理解しておく必要があります。
 なぜならば人的資本には重要な特徴があるからです。それは、人的資本は働く個人が持っているということです。工場、パテントなどの資産は企業が所有できますが、スキルや能力、経験というのは企業が所有できるものではありません。したがって、人的資本を活用するには、働く人たちがこの企業のためにスキルや能力を使いたい、と思ってもらうことが必要になってくるわけです。

(4)雇用ではない働き方の増大
 さらに、逼迫した労働市場との関連で今起こっている現象として、フリーランスなどの雇用以外の形で企業とのつながりを持ちたいという人たちが増えていることが挙げられます。
 こうした働き方はごく少数だと思っている方もいるかもしれません。しかし、例えばソフトウエアを作る高度なIT技術者の中には、企業に縛られない、フリーランス的な働き方を求める人が増えてきています。つまり、企業競争力の源泉に関わる部分が、実はフリーランスや業務委託の人たちによって担われるということです。
 そうなると、今までの人的資本の活用の仕方とは全く異なってくるわけです。例えば、評価はどうするのか、育成はどう考えるのか、もちろん採用という言葉はなくなってしまうわけで、そうなると働く人たちが、この企業のビジネスをやりたい、仕事をやりたいと思ってくれるにはどうすればよいのか。フリーランスの人たちももちろん人的資本ですから、そういう人たちをどう活用していくのかは非常に重要なポイントになってくると思っています。

[3]新型コロナウイルスによる組織と働き方の変化
 最後に、新型コロナウイルスの感染拡大は、働き方や組織の在り方を急激に変えました。テレワークや在宅勤務の導入が進み、オンラインでの会議も一般的になりました。また、これを契機として転勤制度を見直す企業も出てきました。
 オフィスに集まって働く形態から、物理的な場を共有しないバーチャルな働き方に変わってきた場合、働く人は自律的に働いて、個々人が労働時間や仕事のペースをコントロールするようになってきます。そして、個人の視点から見れば、仕事に対する興味はある一方で、組織というイメージがなくなります。
 こうした傾向がどこまで続いていくのかは私にも予想がつきませんが、重要なのは、一定程度こうした働き方は残るだろうし、また働く人たちがこういう働き方を望むようになってきたということです。そうなってくると、マネジメントの在り方、管理職の仕事、仲間意識のつくり方、チームワークの在り方などに対して、大きなインパクトを与えることになります。

3.必要な人材戦略は「全員戦力化」

 人材マネジメントを取り巻く環境が変化する中で、どのような人材マネジメントをしていかなければならないか。私は2021年に出した『全員戦力化―戦略人材不足と組織力開発』という本の中で「全員戦力化」の必要性を説きました。「全員戦力化」とは、可能な限りすべての人材の能力や意欲を戦略の目的実現のために活用する人材戦略です。具体的には、一人ひとりを丁寧に採用・育成・配置し、パフォーマンス向上を支援して、個々の事情に配慮しながら、可能な限り全員に活躍してもらうことを目指すことです。別の言い方をすると、不要な人材もしくは役に立たない人材をつくらないようにするための人事でもあります。
 もちろん、これは理想形です。人材戦略ですから、そういう狙いで人材マネジメントをするという話であって、必ずそうできると言っているわけではありません。
 また、こういう話をすると、たまに「それは人を使い尽くすことにつながるのではないか」「バーンアウトするまで使うことを意味するのではないか」という議論が出てきます。しかし、先ほども説明したように、人的資本というのは、あくまでも働く個人が持っており、それを企業のために使ってもらう必要があるので、働く人たちが喜んで企業のために使いたいと思ってもらわなければなりません。
 したがって、「全員戦力化」を進めていく上では、エンゲージメントをどう高めていくかが重要なポイントになってきます。エンゲージメントが低い企業では、働き手を確保はしているものの、その人たちが100%の仕事をしていないため、結果として見ると無駄が多いと言えます。一方、エンゲージメントが高い企業の場合、人材の総力が大きくなり、企業価値が向上する可能性が高いと私は思っています。つまり、人的資本経営を進める上では、全員戦力化が人材戦略として非常に重要になるのです。

※後編は9月19日に公開予定です。