徳永祥三 とくなが しょうぞう
三菱UFJ信託銀行株式会社
トータルリワード戦略コンサルティング部 部長兼フェロー
1.はじめに
2024年7月下旬から始まったパリ五輪は、先日感動的なフィナーレを迎えた。閉会式では、競技中の真剣な表情から一転し、選手たちの晴れやかな笑顔を見ることができた。スポーツマンシップは本当に心を動かされるものだ。そして、今年の五輪、日本の結果は20個の金メダルを獲得し世界第3位、メダル総数も45個と海外大会で過去最高のとても誇らしい結果であった。
昨年も日本人として喜ばしいニュースがあった。国家ブランド指数(Nation Brand Index 2023)において、日本が初めて首位となったことだ[図表1]。
[図表1]国家ブランド指数(Nation Brand Index 2023)
1位 | 日本 | (69.85) |
2位 | ドイツ | (69.43) |
3位 | カナダ | (68.91) |
4位 | イギリス | (68.80) |
5位 | イタリア | (68.69) |
6位 | アメリカ | (68.43) |
7位 | スイス | (68.24) |
8位 | フランス | (67.95) |
9位 | オーストラリア | (67.80) |
10位 | スウェーデン | (67.75) |
資料出所:イプソス社ホームページより筆者作成
国家ブランド指数とは、国際的な市場調査会社イプソス(Ipsos)が毎年実施している各国のイメージやブランド力を測定するための指標であり、「輸出」「ガバナンス」「文化」「人材」「観光」「移住と投資」の6分野で評価される。今回、日本は6分野すべてにおいてトップ10入りを果たした。このうち「人材」は、調査対象者がその国を訪れたときに歓迎されていると感じるかといった観点や、その国出身の親しい友達を持ちたいと思うかという人材の魅力と、その国の優秀な人材を採用したいかというビジネスレベルでの人材の魅力も測定の要素となっている。日本は、この「人材」でも高い評価を得ているとのことだ。女性活躍に関する指数は下から数えたほうが早いわが国ではあるが、このようなポジティブな話題も含め、最近良い方向に変わりつつあることを実感することもある。
2.人的資本経営の情報開示
「人材」について言えば、2023年3月期決算の有価証券報告書から人的資本経営に関する情報開示の充実が求められるようになった。そして、2024年で2年目となる同開示では、さらに内容が充実してきている。
TOPIX100の3月決算企業について、有価証券報告書で「人材」に関する主な項目のうち定量的な数値を開示している企業の割合を集計したものが[図表2]である。各項目の中で特に開示が進んでいるのが「従業員エンゲージメント」と「ダイバーシティ」に関する項目だ。女性管理職比率は金融庁が法令上公表を義務づけているため全企業が開示しているが、従業員エンゲージメントについては自社の判断の下、開示の割合、開示レベル(実績値に限定しているか、目標まで開示しているか等)ともに上昇していることが分かった。
[図表2]2024年3月期有価証券報告書における人的資本に関する開示
資料出所:各社有価証券報告書より筆者作成(大分類・小分類は当社の定義によるもの)
このような人的資本に関する情報開示の広がりについて、投資家はどのように見ているのだろうか。ある大手機関投資家に話を聞く機会があり、以下のような見解をいただいた。
「人的資本の開示が始まってまだ2年目だが、今後ヒストリカルデータが蓄積されていくと、横比較ができる可能性はある。ただし、同じ項目でも企業によって定義がさまざまであるため(例えば、『女性管理職の定義』『男性育休の取得日数』など)、有意な分析をしていくことは現時点では難しいと考えている。一方で、定性評価としては参考にすることもある。その際、スコアが低いこと自体を問題視するわけではなく、その課題を企業としてしっかり認識した上で、今後どのように改善していくのか方針が明らかであれば、ポジティブに受け止めることもある。また、単にスコアを開示するだけではなく、例えば統合報告書なども活用して、企業経営としてどのような戦略を描き、人的投資がどういった効果をもたらすことを狙っているか、ストーリーを記載している企業はポジティブな評価となる」とのことであった。この機関投資家は「経営戦略と人事戦略の連動」を注視しているようだ。
3.人的資本経営の実践
先日、大手企業の経営企画担当役員を対象としたトータルリワード戦略に関するセミナーを行った際、自社の人的資本経営に関する取り組み方針について事後アンケートを実施した結果が[図表3]である。
[図表3]人的資本経営に関する経営企画担当役員アンケート
資料出所:経営企画担当役員を対象としたアンケート結果(複数選択可)より筆者作成
アンケート結果は実に示唆に富んだものであった。人的資本経営の取り組みにおいて最も効果的と考えられているのは「経営戦略と人事戦略の連動」であり、前述の機関投資家が重視しているポイントと一致している。さらに、その連動をどのように行っているかについては「人材活用の最適化」が最も多く挙げられた施策であり、これはトータルリワード戦略の中の「やる気の促進に向けた非金銭報酬(Inspired)」に該当する[図表4]。そして、本連載の第1回で紹介したとおり、Inspiredの報酬(リワード)は、従業員にとって自分の勤務先で最も課題と考える領域であり、この点については経営サイドと従業員の課題感は一致していると考えられる。
[図表4]トータルリワードの4象限図
資料出所:本連載「第1回 トータルリワードの全体像」の[図表5、6]より筆者作成
さらに、同アンケートにおいて、人事戦略を実現する上で重要と考えている要素として最も多く挙げられたのが「従業員エンゲージメント向上」だ。ほかにも「経営陣のコミットメント」「明確なビジョンと目標設定」「社員との効果的なコミュニケーション」は相応に高い回答割合を示し、経営企画担当役員はリーダーシップの発揮や従業員との対話に力点を置いているようだ。
4.人的資本経営のカギを握る「従業員エンゲージメント」
ここで、従業員エンゲージメントの重要性について改めて確認したい。当社では、2024年7月に企業に勤める正社員を対象に、職場の状況や働き方、パフォーマンス(目標達成率)、従業員エンゲージメントなどに関するアンケートを実施した。
回答者のうち、自社が「経営戦略と人事戦略が連動している」「DE&Iが浸透している」「心理的安全性が確保されている」のいずれかに該当していると答えた840人を対象としたアンケート結果において、本人のパフォーマンスとエンゲージメントの関係を集計したところ、エンゲージメントレベルが高いほどパフォーマンスが高くなる結果が得られた[図表5]。
[図表5]パフォーマンスとエンゲージメントの関係
※パフォーマンス:目標に対する達成率の自己評価
※エンゲージメントレベル:1:低い ⇔ 5:高い
資料出所:当社アンケート結果より筆者作成
逆に、上述の三つの条件いずれにも該当していない回答者について、パフォーマンスとエンゲージメントの関係を見たところ、エンゲージメントが低くてもパフォーマンスが高いなど合理的な説明がつかない結果となった。
従業員エンゲージメントを引き上げることは重要であるが、効果的にパフォーマンス向上を実現していくためには、併せて職場を良好な状態にすることが望ましいと考える。そのためには、まず経営戦略と人事戦略を連動させた上で、それを従業員にしっかり周知し、Comfortableの報酬(リワード)の拡充により、個人から組織全体に至るまで、安全・安心の下に業務遂行ができるような環境整備が必要であろう。
5.職場の課題と従業員エンゲージメント
それでは従業員エンゲージメントを引き上げるに当たり、どのような点がポイントとなるのだろうか。それを探るべく、[図表5]のアンケート回答者からエンゲージメントスコアの高い職場と低い職場、それぞれの回答者から何人かに働き方や職場の課題などについてインタビューを実施した[図表6]。
[図表6]職場インタビュー
エンゲージメントスコアが高い職場 | エンゲージメントスコアが低い職場 | |
職場の特徴 | 職場の風土や人間関係などに課題が見られない。従業員と会社や上司との信頼関係がしっかり築かれている | 職場の風土や人間関係などに課題を抱えている。従業員の会社や上司に対する信頼が低い |
主なコメント |
・会社の雰囲気は良い。評価結果も上司からフィードバックがあり、自己評価と異なっていたときでも、しっかり会話をして納得している(20代男性) ・会社は従業員のワーク・ライフ・バランスを尊重している。やることをやっていれば、休みは取得したいときに取れるので、趣味に時間を割くことができ、プライベートも充実している(30代男性) ・昨年は環境が厳しくパフォーマンスの自己評価は80~90点としたが、上司は自分の働きをしっかり見た上で総合的に判断し100点のフィードバックを受けた(50代女性) |
・会社の業績は安定しているが、規模が大きすぎて現場の意見が本部や上層部に届かない(30代女性) ・直属の上司との関係は良好だが、さらにその上の上司は方針がころころ変わり、話が通じない上に部下の成果を自分の手柄にする。尊敬できる人ではない(40代女性) ・給料は悪くなく、安定している。上司に言いたいことが言えない雰囲気があり、意見具申のタイミングをいつも見計らっている。前向きな意見を上層部に提言したいが、上層部は現場を理解していないし、変わろうともしない(40代男性) |
資料出所:筆者作成
その結果、エンゲージメントスコアの高い職場の特徴としては、職場の風土や人間関係などに課題が見られない点が共通しており、総じて従業員と会社や上司との信頼関係がしっかり築かれていると感じた。逆に、エンゲージメントスコアの低い職場の特徴としては、職場の風土や人間関係などに課題を抱えている様子がうかがえ、本連載の第4回で紹介した製造業A社の人事制度改革前の状況に似ている企業もあった。転職を考えている方も少なくはなかったが、金銭報酬が転職に歯止めをかけている部分もあるようだった。
今回のインタビュー結果を総括すると、従業員エンゲージメントには「リーダーシップの在り方」が大きく影響しているものと考えられる。もちろん、すべての人が、このような見解を示しているわけではないが、職場に課題があると非金銭報酬のバランスが崩れ[図表7]、トータルリワード戦略が機能しなくなり、従業員のパフォーマンスの低下や優秀人材の離職につながる可能性がある。そして、職場の課題解決に当たっては、リーダーの役割が非常に重要であると考える。
[図表7]非金銭報酬ミックスパズルの崩壊
資料出所:筆者作成
6.リーダーシップの重要性
職場に課題がある場合、リーダーが能動的に部下のエンゲージメントを引き上げるアクションを取ることが重要だ。これにより非金銭報酬のバランスが保たれ、金銭報酬との相乗効果が高まると考えている[図表8]。
[図表8]金銭報酬ミックスと非金銭報酬ミックスのパズル
資料出所:本連載「第3回 非金銭報酬」の[図表8]
リーダーの役割は限りなく広くて深い。決断力、発信力、コミュニケーション能力、予算管理能力、責任感、誠実さ、柔軟性、戦略的思考、革新力などさまざまな能力が求められる。リーダーの資質の見極めは大変重要である。部下の非金銭報酬の報酬(リワード)に大きな影響を与えるキーパーソンだからだ。強いリーダーシップが部下の強みを引き出し、組織をあるべき姿(To Be)へ牽引する。また、リーダーの資質の維持・向上に向けたリーダーシップ開発も重要なトータルリワード戦略の一つでもある。
[図表6]の職場インタビューを受けた50代の女性は、職場のリーダーであるが、部下の残業時間が大幅に増えたときには自らその真因を分析しているらしい。その結果やむを得ない残業であれば、深夜の海外本社とのミーティングはすべて自分で引き受けるなどして解決するという。この企業のリーダーは皆、自ら率先して動くマネジメントを実践しており、「リーダーとして当たり前」と答えていた。そして報酬について聞いたところ、給与や賞与の水準は高く、株式報酬も退職給付も導入済みで、MotivatedやSecureの報酬(リワード)が充実している外資系企業であった。さらに掘り下げてパフォーマンスについて質問したところ、通常は目標に対し110%程度のパフォーマンスを上げているという。常時目標を上回る成果を出せる秘訣を聞いたところ、「ベストを尽くす。それだけです」と表情を引き締めた。その懸命な思いは、おそらくお客さまにも伝わっていると感じた。そして、この企業が目標とするリーディングカンパニーになる日はそう遠くはないと確信した。
冒頭のパリ五輪の話題に戻るが、日本の女子スケートボード選手で、前回の東京五輪で金メダルを取ったが、今回は残念ながらメダル獲得には至らなかった選手がいた。彼女は競技で惜しくも実力を発揮できなかったが、後から滑るライバルの失敗を祈ろうとはしなかったと話していたことが報道で話題となった。その姿勢に皆が感動し、「やはり頂点に立つ人は違う」「この言葉こそ金メダル」と称賛を受けた。リーダーシップとスポーツマンシップ、ともに能力や技能だけでなく、気概も重要な要素であろう。
7.金銭報酬と非金銭報酬
当社でも毎年スポーツイベントが行われている。全国各地から大勢の社員が参加し、応援を含め2000人を超す人々が集まるレガッタ大会だ(写真)。筆者が入社した30年以上前からこの大会は継続されている。社員はこの大会を楽しみにしており、非金銭報酬の一つになっている。読者の企業でもさまざまな非金銭報酬の取り組みがなされていることであろう。金銭報酬は同業他社の水準を意識して設定するケースも多いと思われるが、非金銭報酬は、企業ごとにオリジナリティーにあふれている内容であっていい。各企業に非金銭報酬の取り組みを聞くとさまざまな工夫がなされており、企業文化を反映していると感じることもある。
2023年度当社レガッタ大会
前述の大手企業の経営企画担当役員に、14の報酬(リワード)のうち従業員のパフォーマンス向上に最も影響を与える要素についてアンケートで質問したところ、金銭報酬と非金銭報酬のそれぞれに広く分散している結果が得られた[図表9]。この結果はトータルリワード戦略の重要性を物語っていると考える。
[図表9]パフォーマンスに影響を与えるリワードのアンケート
資料出所:経営企画担当役員を対象としたアンケートより筆者作成
報酬(リワード)のうち何が課題かは企業によって異なる。経営者、従業員、人事や企画セクションなど人的資本経営に携わる事務局の間でも意見の相違が見られる。トータルリワード戦略の方針を決めるに当たり、本連載の第5回で紹介した方法を用いて、課題の擦り合わせや改善に向けた具体的な議論を進めていくことも効果的と考える。
8.おわりに
働く上で報酬(リワード)は必要不可欠であり、人を大きく動機づけるものである。その報酬(リワード)は必ずしも金銭とは限らない。人の価値観はさまざまであり、報酬(リワード)の受け止め方も人によって異なる。したがって、トータルリワードの観点で人事戦略を検討することが、企業全体の従業員エンゲージメントや企業価値の向上につながると考えている。
会社や上司は従業員の動機づけを行うことができても、本人に成り代わって仕事をすることはできない。実践するのは本人でしかない。そして、本人が行動する意識を促すためのきっかけづくりとして、「トータルリワード戦略」が有効と考えている。
国家ブランド指数で1位となった日本は世界の中で非常に良い環境の国と評されており、国も企業もそこで働く人々もそれぞれが大きなポテンシャルを持っていると思う。そして、日本の良さや日本人の価値観、働き方に合った「日本版トータルリワード戦略」があると考えている。
トータルリワード戦略には主に二つの目的がある。一つは、従業員のやる気を促し安心感を醸成することで、エンゲージメントを高め、業績や企業価値の向上を実現することである。そしてもう一つは、人生100年時代のうち、現役50年と老後30年の生活を支える重要な位置づけであり、従業員の「人生を豊かにする」という社会的役割を果たすことである[図表10]。
[図表10]報酬(リワード)と豊かな生活水準
資料出所:本連載「第3回 非金銭報酬」の[図表9]
報酬(リワード)はワクワクするものでなければならない。従業員の気持ちを奮い立たせ、モチベーションを引き上げ、職場も快適であり安心して働ける場所であることが望ましい。これを実現できれば、従業員から「人生を託したい」と評される職場になることであろう。
これまで、6回にわたり、人的資本経営の実現に向けた一つの手段として「トータルリワード戦略」を紹介してきた。本連載が、読者の目指す「理想的な職場づくり」の一助となれば幸甚である。
[図表11]トータルリワード戦略が目指す理想的な職場づくり
資料出所:本連載「第1回 非金銭報酬」の[図表8]
※本稿における意見に関わる部分および有り得るべき誤りは、筆者個人に帰属するものであり、所属する組織のものではないことを申し添える。
徳永祥三 とくなが しょうぞう 三菱UFJ信託銀行株式会社 トータルリワード戦略コンサルティング部 部長兼フェロー 公益社団法人日本年金数理人会 副理事長 日本アクチュアリー会正会員 日本証券アナリスト協会認定アナリスト 1994年三菱信託銀行株式会社(現三菱UFJ信託銀行株式会社)入社後、企業年金に関するコンサルティング・営業・事務や三菱UFJフィナンシャル・グループおよび三菱UFJ信託銀行にて人事企画・運用、報酬委員会運営等に従事。2021年に業界初となる「人事制度と退職給付制度を融合したコンサルティング業務」を立ち上げ、現在は人事戦略、定年延長、女性活躍、ジョブ型人事制度、DC・ハイブリッド年金、資産形成等をテーマとした人的資本経営に関する企業向けコンサルティング部署の責任者を務める。 |