PwCコンサルティング合同会社
ディレクター 土橋隼人
1.EXを考える際には “従業員目線(Employee-Centric)” で
本稿ではEX(Employee Experience:従業員体験)の質を向上させるために考慮すべき六つの領域(EXフレームワーク)と、EX向上に取り組む際に必要となる姿勢と施策検討のポイントを紹介する。第1回で指摘したとおり、EXを向上させるとは、従業員が痛みを感じる体験(ペインポイント)を取り除くとともに、ポジティブに感じられる体験を創り出していくことである。そのため、改善が必要な領域や解決の方向性を検討する際にはマネジメント・人事目線ではなく、従業員目線に立って思考する必要がある。そのような考え方に基づきPwCコンサルティングでは、EXの領域を従業員目線で六つに整理している[図表1]。
[図表1]EXフレームワーク
資料出所:PwCにて作成([図表2・4]も同じ)
左側は会社と出会い(リクルーティング/オンボーディング)、学習や成長を通じてキャリアを重ね(キャリア・スキルディベロップメント)、上司や同僚などから組織やチームへの貢献を認め・賞賛される(リワード/リコグニション)という組織内での時間の流れを示している。右側は社内外で人とつながり合うこと(ネットワーキング)、働き方や働く場所の多様性・柔軟性を整備すること(ワークスタイル/ワークプレイス)、精神面だけでなく、身体的にも社会的にも満ち足りた状態になること(ウェルビーイング)という三つの要素で構成している。
EXは文字どおり従業員のエクスペリエンスを指す言葉だが、フレームワークを見ると施策の対象が従業員以外にも広がりつつある。リクルーティング/オンボーディング領域の施策の中には採用候補者を対象としたものが含まれ、ネットワーキング領域にはアルムナイ(退職者)を対象としたものが含まれている。その観点から、最近ではEXではなくPX(People Experience)という言葉を用いる企業も散見されるようになっている。
また、これまでの人事施策ではあまり対象とはしてこなかった従業員のプライベートや感情をケアする施策も、EXの対象になることを指摘しておきたい。例えば、PwCの調査では、日本の回答者の半数以上が経済的なストレスを抱えており、また米国での調査では経済的なストレスを感じる人の半数以上が、経済的なストレスが睡眠やメンタルヘルスに悪影響を及ぼしたと答えている。会社と自宅、仕事と私生活が明確に分かれていることが近代における労働の特徴であったが、近年ではハイブリッドワークの普及などによって両者の境界はより曖昧になっている。それ故、EXを高めるためには、会社にいる・仕事をしている時間のみに対処するだけでは不十分になっているのだ。実際にウェルビーイング領域ではファイナンシャルウェルビーイングという概念があり、従業員が抱えるローンの管理や財務面でのアドバイスを提供するサービスやツールも登場している。
2.EX向上に取り組む際のポイント ── 心理的契約を明確にし、従業員の声(Voice of Employee)に耳を傾ける
次にEX向上の取り組みを成功させるために人事部門に求められる姿勢について議論を進めたい。EX向上においてスタート地点となるのは、従業員との心理的契約の内容やその履行状況の把握である。心理的契約とは明文化されていない相互の期待や義務のことを指す言葉で、従業員は、この契約が裏切られたと感じたときに不満や失望につながり、EX低下や最悪の場合に退職を招く可能性がある。そのため、施策の実施に当たっては、まず従業員がどのようなことを求めているのか把握することが必要になる。また、自社が提供できないような要素を期待されてしまっていたとしても、それに応えることは極めて困難である。自社が提供可能な要素を期待値として持ってもらうような働き掛けも同時に必要となる。
自社と従業員の間での心理的契約内容の擦り合わせに活用できるのがEVP(Employee Value Proposition)である[図表2]。EVPは、会社が従業員に提供する価値を言語化したものであり、報酬や福利厚生という労働条件に含まれる要素にとどまらず、企業が持つブランドや仕事そのものの魅力、入社した後のキャリアの広がり、同僚やチームなどの要素まで含む幅広い概念だ。これらの中から①自社がターゲットとする人材が望むこと、②自社が提供可能なこと、③他社がアピール・提供できていないこと(自社の提供する価値が他社よりも魅力的なものになること)の三つの条件を満たす要素をEVPとして言語化し、採用の場面や社内コミュニケーションにおいて、繰り返し語ることにより会社側が提供する価値と従業員側が求める価値の内容を擦り合わせることが可能となるのだ。
[図表2]EVPフレームワーク
また、施策の実施に当たっては心理的契約が履行されているか(裏切られていると感じていないか)について継続的に調査し、必要に応じて施策の内容を修正することもEX向上には不可欠な作業となる。多くの企業において従業員エンゲージメントの向上が経営課題として認識され、取り組んでいるにもかかわらず、PwCの調査(グローバル従業員意識/職場環境調査「希望と不安」2024)では、従業員が重視している要素と、実際に普段の仕事で得られていることとの間には大きなギャップがあることが明らかになっており、従業員が求めることに十分に応えられていないのが実情である[図表3]。
[図表3]従業員の期待と得られていることとのギャップ
資料出所:PwC「Global Workforce Hopes and Fears Survey 2024」
また、従業員の声を聴いて、それに応えることは精度の高い施策の実施のみならず、従業員との信頼関係を構築する効果も期待できる。従業員にとってみれば、自分の不満や要望に対して会社に耳を傾けてもらえ、それに対処してもらえると感じない限り、会社に対して自身の状況を伝えようとはしない。そのような状態でサーベイを実施しても、正確な情報を望むことは難しく、結果として有効な施策も実施できない。この点について人事部門の方と議論すると、サーベイを数多く実施することによる従業員の「サーベイ疲れ」を懸念されるが、それを招くのはサーベイを実施しただけで終わってしまうからである。EX先進企業では、高頻度のサーベイと結果を踏まえた対応(施策実施や従業員へのフィードバック)までがセットでプロセスとして組み込まれている。従業員からのフィードバックを歓迎し、その内容を受けて施策を修正するというフィードバックカルチャーとも呼ぶべき文化が醸成されているのだ。手間はかかるが、従業員エンゲージメント向上を重要課題として認識するのであれば、投下すべき価値のあるコストではないだろうか。
従業員の感情や認識、施策などに対する反応を把握することは従業員リスニング(Employee Listening)と呼ばれており、海外では人事部門の重要な機能の一つとして位置づけられている[図表4]。この領域について確認されるべきはエンゲージメントサーベイでは従業員の声を聴くには不十分ということである。年1回程度の頻度で実施されるサーベイではEXの上昇・低下を捉えるには遅すぎるし、従業員が何を求めているのかを解像度高く把握することは難しい。そのため、実施時期・頻度や対象(全従業員、新入社員など)、手法(定量的なサーベイ、定性的なインタビュー、従業員データの分析)を組み合わせて、複合的に従業員の状況を理解することが必要となる。特に定性的なインタビューでは、状況を深く理解できることに加えて、定量的なサーベイでは把握しにくい潜在的なニーズを発見することが可能だ。従業員リスニングの領域において「ステイ・インタビュー」という手法が注目を集めている。これは現役の従業員が感じていることを把握するためだけでなく、EXを改善するための施策のインプットとするためのものである。また、各部門に従業員の声を収集する担当者(人事ではなく現場の従業員)をアサインするという手段も考えられる。担当者は毎月組織内の全メンバーと面談を行い、従業員から寄せられたフィードバック、懸念事項、提案などを担当者間や人事部門と共有し、対応方法を議論することなどにより従業員の声を広く収集・対応する体制を構築することができる。
[図表4]従業員リスニング(Employee Listening)の手法
3.施策実施のポイントとなる5要素 ── 従業員の成長・成功を支援する(Employee Success)
EX向上施策を検討する際にポイントとなる要素を以下の五つに整理した。これはEX向上のために、われわれが普段顧客として得ている体験と同じような体験を提供するという前提に立ってまとめたものである。EXを高めるためには個々人の志向性(仕事や会社に期待していること)に合わせて、仕組み・仕掛けを考えることが大前提ではあるが、多くの人に該当する要素として施策検討の参考にしていただきたい。
<EX向上施策の5要素>
透明性(Transparency)
合理性(Value-Oriented)
個別性(Personalize)
即時性(Real Time)
人間的(Human Touch)
「透明性」は、若年層が多く働くスタートアップ企業などを中心に、情報の非対称性を利用したマネジメントに対して否定的な議論が提起されていることが一つの例だろう。社内ルールや仕組みがブラックボックスになっていたり、情報が隠されていたりすると感じたらモチベーションも低下してしまう。また、EX向上施策の中心となるのは「従業員の成長・成功を支援する(Employee Success)」という思考である。これは無駄な手続きやプロセスがなく仕事に集中でき(合理性)、自分自身の状況や志向性に合った成長機会(研修プログラムなど)がリアルタイムで提示される(個別性・即時性)取り組みだと整理できる。さらに、サービスの提供方法にも工夫が求められる。CX(顧客体験)において重視されるインタラクションが、人間のコミュニケーションに近いとよく指摘される※が、EXにおいても同様である。例えば、メールではなくチャットで、キーボードではなく音声入力で手続きなどが完了すること(人間的)によって従業員の体験が向上するのだ。
※PwC「顧客体験が全てである:それを正しく理解するうえで重要なこと」
https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/thoughtleadership/future-of-customer-experience.html
4.おわりに
本稿では、EX向上のフレームワークと取り組みのポイントを解説したが、具体的な施策の紹介ではなく、人事部門としての取り組み姿勢に比重を置いている。これは、EX向上とは先進企業が採用している施策やツールを導入すれば実現できるものではないということを認識してもらいたいという思いからである。従業員が、会社や仕事に期待することは人によって異なるし、常に変化している。そのため、EX向上とは、継続的な従業員リスニングと施策・メッセージの絶えざる改善によってのみ効果を創出する「未完のプロジェクト」と表現できる。そのような認識の下で取り組みに着手して、効果創出につなげていただきたい。
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土橋隼人 どばし はやと PwCコンサルティング合同会社 ディレクター 総合系コンサルティングファーム複数社を経て現職。組織人事コンサルタントとして15年以上の経験を持ち、人的資本経営・情報開示高度化、人事制度改革、役員報酬設計、人材開発体系設計、ピープルアナリティクス、HR Tech活用、HR/Work Tech企業における事業・プロダクト戦略立案などの幅広い領域の変革を支援している。また、PwCコンサルティングにおける人的資本経営・情報開示領域のサービス担当や自社のアルムナイ事務局を務める。著書に『EX従業員エクスペリエンス』(共著、日本能率協会マネジメントセンター、2024年)がある。 |