2024年10月25日掲載

Point of view - 第263回 滝澤美帆 ― 企業は生産性を向上させる社員教育を行っているのか

滝澤美帆 たきざわ みほ
学習院大学 経済学部 教授

専門はマクロ経済学、生産性分析、データ分析。2008年一橋大学博士(経済学)。日本学術振興会特別研究員(PD)、東洋大学経済学部教授、ハーバード大学国際問題研究所日米関係プログラム研究員などを経て、2019年学習院大学経済学部准教授。2020年より現職。現在、経済産業省産業構造審議会、中小企業庁中小企業政策審議会など複数の中央省庁審議会委員や東京大学エコノミックコンサルティング株式会社のアドバイザーを務める。

雇用の非正規化と人的資本投資の停滞

 人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営の在り方と定義される「人的資本経営」に関する報告書が経済産業省から2020年に公表されて以降、人材に対する注目がますます高まっている。同時に、人手不足感の強い日本経済においては、労働の「量」を増やすことが難しく、その「質」である労働者一人ひとりの能力を最大限に引き出し、生産性を高めることが求められている。
 そのためには、社員教育を充実させる、いわゆる人的資本投資を積極的に行うことが重要であると考えられる。しかしながら、経済全体の人的資本投資額を確認すると、2010年代はほとんど増加していない。2010年代の人材育成投資額は、前半は1.5兆~1.6兆円程度で、後半は徐々に低下し、新型コロナウイルスの感染が拡大した2020~21年には1.2兆円と、1990年代半ばや2000年代半ばの半分くらいまでに低下している。この1.2兆円のうちの1兆円程度がサービス業における投資額であるが、1995年の同額は1.7兆円であったため、約6割に減少したことになる。この一因として雇用の非正規化の影響が指摘されている。非正規社員は正規社員に比べ、教育訓練の機会が少ない。このため経済全体の非正規社員の割合が増えると、人的資本投資も停滞することになる。

人的資本は生産性に寄与するのか

 GDPに対する人的資本投資額の比率を諸先進国と比較してみても、日本は突出して低い。2010年代の人的資本投資/GDP比率が日本は0.3%程度であるのに対し、米国は0.9%程度と約3倍、英国は1.7%程度、ドイツは1.4%程度である。
 ここで一つの疑問が生じる。人的資本投資は生産性と関係があるのか、ということだ。仮に、人的資本投資を行っても生産性が向上しないならば、日本の人的資本投資が停滞していても大きな問題とは言えない。そこで、まず、人的資本投資とその後の労働生産性上昇率につき、国レベルのデータを用いて相関関係の有無を確認すると、2000年代に人的資本投資/GDP比率が高い国ほど、その後の2010年代の労働生産性上昇率が高いことが分かった。人的資本投資と生産性の間には、プラスの関係が存在しそうである。
 以上は、国レベルのデータを用いた分析結果であるが、企業データに基づく分析でも同様の結果は得られるだろうか。以下では、日本の企業データを用いた先行研究の一部を紹介する。
 Morikawa(2021)によると、教育訓練は、企業の生産性に対して正で寄与すること、その傾向は製造業より非製造業で顕著であり、企業の教育訓練投資を促進する政策が、特にサービス分野の企業の生産性や賃金を高める上で潜在的に有効な可能性があるとしている。
 小寺・井上(2018)では、人的資本投資を積極化させることは、労働生産性の水準によらず、生産性に対しプラスに働く可能性が高いとの結果が報告された。
 初見(2020)では、人材育成投資が従業員の主観的な生産性向上に間接的に寄与すること、具体的には、自己啓発や能力開発、組織開発の支援といった人的資本投資が、従業員の自己効力感、ジョブ・エンゲージメント、企業理念への共感を高め、それがプロアクティブな行動につながり、結果として主観的な生産性を向上させるとの結果が示されている。

社員教育の在り方をどうすべきか

 以上の先行研究からは、人的資本投資は生産性向上に寄与するとの結果がおおむね得られているが、上述のとおり、日本企業はコスト節約を優先し、過去30年の間は十分な社員教育を実施することができていなかった。また、主に上場企業を対象としている「日経『スマートワーク経営』調査(2023年)」で、正社員の研修制度(OFF-JT)について見ると、メンバーシップ型雇用の特徴のためか、導入割合上位には「階層別」「新入社員」など組織人としての研修が多く、約7割に上る一方で、「従業員の自律的な学びを助ける研修」「IT人材育成のための研修」「会社で業務上必要な資格取得に関する研修」「外国語習得のための研修」などリスキリング関連については3~4割程度であった。

 現在、AIなど技術の変化のスピードが速く、新しいテクノロジーに対応するため社員に新たなスキルを修得させることが重要になってくる。それには社員の能力、特性に適したリスキリングを実施する必要がある。生産性を向上させるためにも、企業が主導的にリスキリングなどを含む社員教育を行う場合は、社員個人のスキルレベル、ニーズに応じて必要な訓練・研修メニューを選ぶことができるような「カフェテリア方式」の導入が重要となろう。

【参考文献】

・Morikawa, Masayuki(2021)"Employer-provided training and productivity: Evidence from a panel of Japanese Firms," Journal of the Japanese and International Economies, Vol. 61

・小寺信也・井上祐介(2018)「企業による人的資本投資の特徴と効果」経済財政分析ディスカッション・ペーパー DP/18-2

・滝澤美帆・鶴 光太郎・山本 勲(2024)「日経スマートワーク経営研究会報告 2024─テクノロジー活用とリスキリングで拓く人的資本経営─」

・初見康行(2020)「日本企業の人材マネジメントの実態 ~アンケート調査より~」(『日本企業の人材育成投資の実態と今後の方向性~ 人材育成に関する日米企業ヒアリング調査およびアンケート調査報告~』)日本生産性本部生産性レポートVol.17

・宮川 努・滝澤美帆(2022)「日本の人的資本投資について─人的資源価値の計測と生産性との関係を中心として─」RIETI Policy Discussion Paper Series 22-P-010

・宮川 努・滝澤美帆(2023)「コロナ禍を経た企業内人材育成の現在地─独自調査も踏まえた検討」学習院大学経済経営研究所編『学習院大学経済経営研究所年報』第37巻 1-15