勅使川原真衣 てしがわら まい 1982年横浜市生まれ。組織開発専門家。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。BCG、ヘイグループなど外資コンサルティングファームでの勤務を経て、2017年に独立。企業をはじめ病院、学校などの組織開発を支援する。また、論壇誌などにおいて多数の連載や寄稿を行っている。著書に、紀伊國屋じんぶん大賞2024で第8位となった『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)のほか、『働くということ 「能力主義」を超えて』(集英社新書)、『職場で傷つく リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』(大和書房)がある。編著『「これくらいできないと困るのはきみだよ」?』(東洋館出版社)が2024年12月17日に発売予定。2020年に乳がんと診断され、闘病中。 |
先日、ある人事系サービスを展開されている会社の代表の方が上梓した著書を恵贈いただいた。そこに興味深い記述があった。「人事労務担当者は、『悩みを言ってほしい、相談して欲しい』と心から思っておられます。しかし同時に、『悩みを言って欲しくない』と思っている部分もあります」※──。実に的を射ている。
その複雑な心境の背景として、会社の制度として対応範囲や内容が定められていること、社員のプライバシーに踏み込めないことなどが挙げられていた。うむ、これも仰るとおりだ。
※藤田康男『社員がメンタル不調になる前に』(2024年、日本能率協会マネジメントセンター)
人事はつらいよ、の背景とは何か
社員の活躍のため、ひいては事業のさらなる成長のため、人事(労務)担当は社員の困り事には対応できないのだとしたら、何にこうも忙しいのか。企業規模や業種、組織構造など次第だが、多くの場合、社員の「評価」とそれに付随する業務に勤しんでいる。これがめっぽう煩雑だ。既存社員の評価もそうだし、採用において、求める基準に対する評価を取りまとめるのも大変だ。「この人は何ができる人か」=「能力」によって、選抜、配置、登用、昇級・昇格……と人材の扱いを決めていく、その震源地が人事部である。
しかし妙なことを言うようだが、よく考えてみると不思議でもある。職務は現場(社員それぞれの持ち場、部門や事業所など)で行われているのに、その評価と処遇は、現場ではなく人事部が正当性を担保する機関とされているのだから。事業運営は現場でされているが、その評価は現場ではなく、多くの場合人事部が行う。なぜか。
現場ももちろん忙しいし、無数にある制度や法令は移ろいやすい。一方で、評価を行うためには、厳格かつ適時に法令を遵守することが求められるため、専門的な対応が必要だからだ。とはいえ、業務ローテーションがあると人事部の専門性は守られにくさも出るのだが、人事コンサルだったり、各種規格にのっとったHRテックツールなどを駆使して、対応している。
逼迫する業務と「新しい時代の新しい人事像」
言うまでもなく、人事は企業存続の屋台骨である。この生命線が、専門家集団のサポートもあって回っているのなら、めでたしめでたし。しかし、今何に人事部が逼迫しているかと言えば、相変わらず評価とその周辺業務を続けている一方で、人手不足に抗いながら行う採用活動、人事評価に関する概念の変遷の高速サイクル化と氾濫、それらをひっくるめた人的資本経営への対応などが要因としてある。そのほかにも、ストレスチェックの全事業所対象化への対応や、「配属ガチャ」がどうこうと文句を言う新卒も後を絶たないので配属先確約採用を検討するだの、採用の1次面接はAIにさせることで矛盾回答を見破り、求める人材にたどりつく確率を上げることで効率化を図ろうだの、人事部が直面する問題は枚挙に暇がない。「静かな退職」を問題視する風潮の陰で、人事労務担当自身が実は静かに退職する(担当業務を限定する)ことで、わが身を守る動きもあると耳にする。
人事は忙しい。今日も「新しい時代の新しい人事像」をめがけて、奮闘する。「心理的安全性」「エンゲージメント」「ウェルビーイング」「対話」……新しい時代の/これからの時代のこれからの能力、組織力を謳う言説は、終わりが見えないのだから。
では、人事部はいつまで、どこまで、「新しい時代の新しい能力」を追って、見えない敵と戦い続けるのだろうか。トレンドを踏まえ、また、専門家と連携して、経営から突っ込まれどころ少なくやっていくことに、いつまで命を燃やしていこうか。
「仕事はどう回っているのか?」に立ち返る
この問いに答えるに際して立ち返りたいのは、現場がなんとか回してきている、「仕事というもの」そのものについてだ。「働くということ」そのものと言ってもいい。
現場は、そりゃあ過不足や失敗事案も何かしらあるだろうが、それでも今日までなんとか回っている。それは、「優秀な」社員、「能力の高い」社員だけのおかげだろうか。仕事というものは、何か個人が真空状態にぷかぷかと浮かんでおり、1人の人間が自身に内在する「能力」を使って行っているのだろうか。本当に?
私は長年、組織開発コンサルタントとして、製造業や情報サービス、教育、医療などなど多岐にわたる現場に、人事部や経営陣とともに分け入ることを生業にしてきた。そこで思うのだが、仕事が個人の力量でなされているように見えたことは、ただの一度もない。孤高の数学者でもない限り、多様な癖、特技、弱点……を持った人同士が、持ちつ持たれつやっている。「ソルジャー」と言われた人が、子どもの誕生によって働く時間が短くなったり、「不夜城」と言われた部門の部門長が体調を崩し、その間なんとかカバーして……なんてことも、ごく普通に誰にでも、どこにでもある。
要は、仕事というのは、個人の「能力」で回っているのではなく、個々人の持ち味の組み合わせで、揺らぎながら成り立っている。
ならば、誰もこの目で見たこともない個人の「能力」像ありきで、それを測ったり、周りと比べて評価したりということに人事の威信のすべてを突っ込むのではなく、組み合わせるためのヒントについてよく知り、組み合わせの試行錯誤を取りまとめるのが、人材の専門家たる人事の職務ではないだろうか。
人事は忙しいが、本当はうすうす気づいている。人を評価しているようで、実は自分の評価のために “あーでもないこーでもない” と言ってやらざるを得ないことに。つまり、評価の二重性に苦しんでいる。
だから、どうせ頑張るのなら、怯えながら「能力」による序列づけに加担することではなく、仕事の本来の協働性に素直になって、組み合わせの試行錯誤をしたい。組み合わせるために必要なのは、「能力」の把握ではなく、良しあしではない、各人の発揮しやすい「機能」のつぶさな観察と発掘、また、それについて本人や組織と対話することだ。
「どのピースが優秀か?」なんてあるものか。「何色で、どういう凹凸で、どの大きさか?」をまず把握する。そして、つくろうとしているもの(=企業でいえば事業のゴール)のどこに必要そうか、それをあらかじめ把握する。そして組み合わせていく。
人事が「誰が優秀か?」という問いのまま、「何をつくろうか?」にはさしたる興味を持たず、能力主義的な序列づけを職務だと思い続けることがあるとしたら、それはブロック遊びで例えても徒労感が否めない。どうせ頑張るのなら、何をつくろうとしているのか? そのために誰をどのように組み合わせるか? これに尽きよう。